刀の拵の移り変わり


1.初めに

2.時代の変化

  2-1.「刀」拵の時代的傾向

T.平安時代から南北朝時代まで
@「呑口(入)式」
A「刻鞘式」
B「筒金式」
C「厳物造り形式」
U.室町時代から近世へ
@室町時代初期から中期
A室町時代中期から戦国時代
  ・馬手指
B桃山時代から近世へ

  2-2.「打刀」の派生と変化

3.粗末な拵〜柄を中心に〜
3-1.柄巻
3-2.巻下
3-3.目貫

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1.始めに


 ここでは「刀」の拵えについて言及する。
 「刀」とは即ち刃を上にして腰に差す形式の日本刀であると前述したが、半太刀拵の物など拵は「打刀」にもかかわらず、刃を下に向けて腰に差したりする物もある。また「打刀」を腰当てなどの器具を使って太刀を模して佩びる事もある。
 こういった例外も有るが、拵自体は「刀」の拵である事から、これらもまとめて「刀」とする。


一、「刀」の名称

 一口に「刀」と称しても様々な大きさ・形状・名称がある。
 名称に関しては出典・時代に拠って異名同種の物が多く(腰刀『平家物語』・腰物『梅松論』・腰差『籾井日記』)、形状を表している名称(合口など)を覗いて、便宜的に統一した。ご了承願いたい。
 この場では「刀」を大まかに二つの種類に分ける。「打刀」・「腰刀」である。
 「刀」の基本を「腰刀」とし、短刀の様な小さな刀から、脇差の様な短い「打刀」まで幅広い物を含めた。そして特筆すべき戦闘用の「刀」を、「打刀」として分けて考えた。この打刀こそが、現在一般的にイメージされる日本刀である。
 また特に短い「腰刀」を「小刀」と表記する場合もある事を記しておく。


二、工芸品的「太刀」と民具的「刀」
 そもそも石器の時代より人類が携帯した道具の一つが「刃物」である。生活に欠かせない道具が、常に携帯され、時には武器として使用され続けた。武器として、また身分標識の道具として特化していった「太刀」とは違い、時代が下っても「刀」は生活に密着した道具としての一面が強い。武器として、また身分標識の道具として特化していく「打刀」が生じてもである。鞘に小柄といった生活小道具を常備できる様に成っている「刀」の拵が多い一方で、「太刀」の拵にはこういった施しが無いのが、この二つの拵の立場の違いを表している顕著な例と言えるだろう。
 こういった武具と言うよりは道具に近い物である事から、「刀」は安価で大量に様々な場所で作られ(刀工のみならず、野鍛冶師などによっても作られたであろう)、室町時代には流通市場に乗り、大陸にも大量に輸出された。刀身も数打ち物と言われる様な大量生産品である。こうしてみると「太刀」が工芸品的武具なのに対して、「刀」は民具的武具とも言えるかもしれない。


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2.時代の変化


 民具的様相すらみせる「刀」故、消耗されたのか遺物が非常に少ない様である。また修理された中古品が取引されたり、部品をリサイクルして使用する等された為、刀身や拵の部品がバラバラである事も珍しくはない。そもそも形式が明確な物ではなく雑多な刃物であるから、装束に伴う儀仗刀等の様に規定が在る物以外は、時代のみならず作り手や使い手に拠って、幾らでもヴァリエーションは存在するであろう。

 この様に時代の様相が分かりづらい「刀」の拵であるが、時代の変化が無いわけではない。絵画資料の中からヒントを捜している先行研究もある。また遺物の研究としては、なんといっても「法隆寺西圓堂」に大量に残る武具を調査した日本古文化研究所の資料がある。この「峯の薬師」で有名な薬師堂には古来より大量の武具が庶民から奉納されてきたのであり、貴重な(比較的一般的な)武具の遺物が残っている。こういった先行研究を元に、「腰刀」を基本とした拵の時代的傾向をまとめてみたい。
 また「刀」の拵として重要な「打刀」に付いては、「腰刀」よりの進化という部分を中心に別項としてまとめてみた。


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2-1.「刀」拵の時代的傾向


 始めに近世と、それ以前の「刀」拵の差があるので、その点をまず挙げておく。

 第一点はである。
 「腰刀」に限らず「刀」に鍔が無い事が多いし、在っても小さな喰出鍔であったりする。今の様な大きな鍔が「刀」に付けられるのが一般的になるのは、大阪の陣以降である。

 第二点に返角(折金・逆角・反金)の存在である。
 天下太平の世になると邪魔であると無くされてしまう。これは栗型の鞘尻側に付いている鍵フック状の部品で、刀を抜く際に鞘も一緒に抜け落ちない様に引っ掛ける役割を果たす重要な部品である。これがある事で、片手で刀を抜く事が出来るのである。これを邪魔だと取ってしまう事で、命を落とす恐れもあると『雑兵物語』の中では盛んに嘆いている部品である。
(この栗型と返角との間隔は古風は「腰刀」は一寸程度と狭く、「打刀」は三寸程度と広い傾向にある様である。これは前者が袴の紐に差すのに対して、後者は上帯に差す風習の為だという。注1



T.平安時代〜南北朝時代
 資料が少なく不明な点が多いこの時代の腰刀だが、幾つかの先行研究がある。「法隆寺西圓堂」の遺物調査や、絵画資料の調査などをふまえると、以下の様な流れを感じる事が出来る様であるが、明確な順序と言い切れない面もある。番号は目安として観て欲しい。
@「呑口(入)式」
 その特徴は柄と刀身の間に、脛巾が無い事である。鞘側にせり出して食い込んだ柄木の末端が、その役割を果たしている。 素朴な外観で、鍔は勿論、栗型から返角まで付いていない物もある(注2)。
 平安末期から鎌倉初期、古くは古墳時代にまでさかのぼる形式である様だ(注3)。

A「刻鞘式」その他
 鞘に横縞状の凹凸を刻み込んだ柄と鞘が特徴。俗に言う「海老鞘巻腰刀」である。幅広く、反りが高いが、全体的に薄く作られている。これもまた「呑口式」の一種だが、その加工技術から@の物よりも時代が下ると推測される(注4)。
 その他としたのは、鞘を刻んではいないが、下記の図の様に同様の形式と思われる絵画資料が在る為。


『松崎天神縁起』より
画像の物は「刻鞘式」ではないが、拵のシルエットは同様の物。

B「筒金式」
 柄に大きな目貫と共に筒金をはめて補強している拵。鞘にも筒金を入れるケースもある。「打刀」にも多く、合口形式・鍔刀形式もある。


『松崎天神縁起』より

C「厳物造り形式」
 「太刀」拵と同様に「長覆輪」「蛭巻き」を施した物も遺物・絵画に見受けられる。
 「太刀」の「厳物造り」は古く平安時代までさかのぼり、盛んに成るのが鎌倉時代で在る事を考えると「刀」の拵としても同様であると考えられるが、遺物として残る物にはもう少し後世の物がある。例えば長覆輪の「菱作打刀」(春日大社所蔵)は南北朝の物であるし(注5)、「蛭巻き拵の腰刀」が描かれている『芦引絵』(前頁参照)は室町時代を描いている物と思われる(製作自体は15世紀半ば)。それを考えると、もう少し時代が下っても製作された様だが、概して古風な高級品であろう。

『蒙古襲来絵詞』より
「蛭巻き」を施したと思われる腰刀。シルエット的にはAの物に近いか。

 拵の多くは漆塗りの木製で、鮫革等を巻き付けている物もある。金具類は黒角(黒漆を塗った牛角)で作られる事が多い。柄巻が施されている物(@の形式など)には、革等が使われている様だ。
 各形式の折衷もあり、「菱作打刀」は長覆輪の「厳物造り形式」であるが、柄は「筒金式」で造られている。
 ただ、遺物は少なく、詳細な絵画も少ない。上記した物は、後世に幸運にも残った形式であり(多くは高級品で在ったと想像できる)、失われた拵形式もあるであろう。また拵の時代変化が在ろうとも厳格に移り変わったわけではなく、同時並行的に存在していたとも推測出来る。まだまだ分からない事が多い時代の物である。

 また南北朝時代には、巨大な包丁のごとき脇差しも現れるが、これは例外的な物ではないか。


U.室町時代〜近世
 この頃より遺物が多く、特に「法隆寺西圓堂」の資料が大いに参考になった。
 前項と違い、拵形式も多彩に残っており、ここでは拵形式で分けるのではなく、その時期に現れてきた特徴を時代ごとに列挙する形でまとめてみたい。時代の区分はおおよそであり、明確ではない。明確にするのは難しいし、厳格にする必要も無いと思う。
室町時代初期〜中期
 前代の物から比較すると素朴な拵が残っている。
 鞘は薄目の平鞘で、薄革を巻いた上に黒漆を塗った物が主流であるが、鮫革を巻いた物もある。小柄や笄を入れるは裏表に両方にある物と、差裏にしか無い物とがあるが、両櫃の物が多い様である。
 柄は柄巻きの下が素木のままの物や、鮫革を巻いた物まであるが、糸巻・革巻を握る部分のみに施している。柄頭に黒角の金具を施している物もある。
    
『松崎天神縁起』より

室町時代中期〜末期・戦国時代
 この時代の特徴として、頑強な拵の物が多くなる事である。
 鞘は近世に通ずる重厚な物になる。鞘尻に向かって細く薄く削られ、鞘尻は丸くとがった形の物になる物が多くみられる様になる。中には鞘尻に金具()を施す物もある。櫃は差裏に片方だけ付けられる様になるが、ここには小柄・笄の両方を必要に応じて入れた様である(注6)。「打刀」に関しては両櫃の物も多い。
 柄巻は糸巻・革巻が以前と変わらず多いが、柄頭までしっかりと全体に巻かれる様になり、巻き方も頑強に巻かれ、柄頭に金具を付けて柄巻で巻き留める形式が普及し始める様である。これは現在一般的な柄の構造である。特筆すべきは柄自体の形状で、柄元・柄頭に比べて中心部がくびれている「立鼓柄」の物が時代的特色とされる。これは滑り止めである。
 また一部、鍔が使われる様になる。「腰刀」には小さな喰出の革鍔(練革を二枚ほど重ねて漆で固めた物)が、「打刀」には「甲冑師鍔」「刀匠鍔」などと呼ばれる素朴な鉄鍔か、角に漆を施した黒角の鍔が使われる。とはいえ「打刀」も含め、合口の物も多い。
 その他の変化として、金具類の素材が黒角から、銅の使用へと移ってゆく。
・「馬手差」

 この時代の特殊な拵・着用法として「馬手差(妻手差・右手差。めてざし)がある。
 「馬手差」とは通常とは反対側の右腰(馬手)に差す脇差である。敵と近接戦闘で組み合った際に、右側に短い格闘用の刀が在ると便利な事から起こった装着法であるというのが通説の様である。「鎧通し」等と呼ばれる刺突専用の短刀も、この一種である。
 「法隆寺西圓堂」には室町時代末期の遺物とされる、栗型・返角が通常とは反対側に付けられた「馬手差」拵の物が存在する。しかしこれは半太刀拵と同様に、左腰に刃を下に向けて差した物という意見もある(注7)。
 またそれ以外にも「馬手差」拵は作られているが、これは江戸時代になってから作られた物であり(注8)、本来の「馬手差」では通常の刀を逆さにして(刃を下に向けて)差した様である。

桃山時代〜江戸時代初期、そして近世へ
 この時代の大きな特徴は、身分の高い物も「打刀」を差し、「刀」の二本差しが行われる様に成る事であるが、詳しくは「打刀」の項で触れる。
 この時代から「小刀」の柄の形状として、柄頭に向けて細くなってゆく物が作られている。この形式で巻きを施さず、鮫革剥き出しで目貫を貼り付けた物が「殿中指」と呼ばれる物である。また、特に「殿中指」等では、栗型と返角との間隔が広く変化する様である(注9)。
 大阪の陣の頃には「小刀」以外には、総じて大きい鍔が付けられる様になる。それとは逆に鞘から返角が消えてゆき、僅かな突起である「さぐり」に名残を残す(それすら無い物が多い)。また高級品を除き、革包・鮫革包の上から漆を塗り込めていた鞘のコーティングが、漆塗りだけに変わって行く(注10)。
 こうしていわゆる日本刀の拵が完成される。


注1
『法隆寺西圓堂奉納武器』p.71
注2
『新版・日本刀講座8』p.326
注3
『法隆寺西圓堂奉納武器』p.69
『新版・日本刀講座8』p.326
注4
『法隆寺西圓堂奉納武器』p.70
注5
「至徳二年(西暦1385年)正月廿二日」に奉納したという日付がある。
注6
『法隆寺西圓堂奉納武器』p.75
注7
『鎧をまとう人びと』p.162
注8
『図説・日本武道事典』「馬手差」の項参照。
注9
『法隆寺西圓堂奉納武器』p.77〜78。図版第十九〜二十
注10
『法隆寺西圓堂奉納武器』p.46・68


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2-2.「打刀」の派生と変化
 一般的に「日本刀」と呼ばれる刀剣は、「打刀」である。
 しかしここで注意して欲しいのは、一般的に「刀」「打刀」「日本刀」と呼ばれる拵は近世の江戸時代に入って形成された形状であり、中世のそれとは大きな差異がある。
 武道の練習用として、観賞用として多くの模造刀が売られている。「天正拵」など中世末期の戦国時代の拵を思わせる商品名も多い。しかし残念ながらその形状は近世に入ってから一般的になった形状をしている事がほとんどである。中には明智光秀が佩用したとされる「打刀」のレプリカもあり、当時の拵に忠実な商品もある。とはいえあれは極めて近世に近い物であるし、高級で特殊な一例である。
 「打刀」というと、即、一般的な「日本刀」を連想するかもしれないが、そういったイメージを、こと中世の拵というテーマでは捨てて頂きたい。

 さて前述した様に、身分の貴賤を問わずに「刀」は腰に差されていた。
 その中で平安末期には、太刀を佩びる事の出来ない身分の低い雑人が、長寸の明らかに戦闘用の「腰刀」を差している様子を絵巻物で見る事が出来る。この戦闘用の「腰刀」が現在の「打刀」の原型である様だ。(「打刀」の名称自体は『平家物語』などに記載されたのが最初期の様である。)
 元々「太刀」を佩びる貴人は補助武器として、或いは常備の武器として、小さ刀などと呼ばれる「短刀」を腰に差しているが(これは武家故実として近世にまで続き、江戸城松の廊下では吉良上野介が刃傷沙汰を仕掛けられている。また二本差しの脇差も、ここから変化した様式である。)、これとは別に利便性から略式として「太刀」の変わりに携帯される事も在った様である。

 「打刀」の形状が大きく変化し、刀剣の主流をなし始めるのが、南北朝の動乱の中である。
 この時代、「打刀」が流行した為、「太刀」の刀身を「打刀」に拵を変えてしまう事も度々行われた。この様な事が起こると、初めから「打刀」として「太刀」と同様の刀身が作られ始める。こういった動きは応永年間(1394〜1427年)には見られる様である(注・1)。即ち南北朝時代(1336〜92年)には、「打刀」も「太刀」と変わらない長さの物が現れる様に成っていたと言えるであろう。こういった「打刀」は、柄の長さも太刀と同様の、両手で握る様な長さに伸びたと思われる。
 とは言え、やはり「打刀」を使用するのは主に下卒の者であった様だし、刀身の長さも現在の脇差程度の物が主流である。柄も片手で使用する短い物が付けられていた(刀身の長さが現在の「打刀」並に長い物でも、片手打ち用の短い柄が付いている物が多い。)

 やがて室町時代後期・戦国時代には、「太刀」に変わってすっかり「打刀」が普及し、上級武士までもが「打刀」を腰に差す様に成る。
 織豊期までには武士の身分標識として大小の「打刀」を差す二本差が定着する。この頃には刀身も近世「打刀」の長さや反りに落ち着いてくるし、柄も「太刀」と同様に両手で握る事が一般的に成る様だ。
 とはいえ鍔は革を重ねた小さな物が付く程度で、今の様な大きな鍔が付く物を鍔刀と呼ぶ等、一般的では無かった様であるし、かなりの長さの物で合口形式の物すらあるのは前述した通りである。拳を守れるレベルの鍔が一般的になるのは、大阪の陣の前後である。

 江戸時代に入り太平の世が続くと「打刀」は身分標識としての道具であったり、洒落の道具であったり、本来の目的とは違う武具としての面が大きくなるが、その事については触れない。
 一つ特筆すべき事があるとすれば、何度も繰り返すが返角・折金の退化である。

注・1
鈴木眞哉 『刀と首取り』p.73〜74


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3.粗末な拵〜柄を中心に〜

 刀剣類の資料に記載されたり、展示施設で展示される拵は、名品揃いである。当たり前の事で、名品と認められたからこそ保存のチャンスを与えられ、展示・掲載のチャンスも巡ってくるのである。即ち遺物が多い物が、その時代の一般的な物品とは限らないという事である。
 戦場の兵士の多くは高級な名品を装備する事は不可能である。そういった需要に応えるべく、多くの安価な商品が、特に室町時代以後出回る様になる(室町時代を境に日本の生産力・流通量が飛躍的に向上している様なので、自然な事ではあるが、それ以前に関しての遺物が無いので明らかにされていないだけかも知れない)。さらにそういった商品は輸出商品として、大量に大陸に流れるまでになる。
 こういった安価な商品は、刀身は数打ち物の大量生産品で、拵も粗末な造りである。その粗末な製品も、中古品が出回り、さらには度重なる修理や取り外した部品を寄せ集めて商品を作り出した事は既に述べた。
 こういった物は保存される事はなく消費されてしまうが、幸運な事に「法隆寺西圓堂」に奉納された物として、現存し調査されている。
 
 粗末な拵に関しては、使用される技術や材料が安物である他は、特に触れる事も余りない。しかし粗末な拵として異彩を放っているのが柄の部品である。そこで柄の造りに付いて特筆すべき事項を挙げてみたい。

3-1.柄巻
 素材は様々な物がある。革・打紐(組紐)といった一般的な物から、藤・防己(つつらふじ)と言った植物のツタ類、さらには布を巻いた物、紙を捻った物までがある。
 巻き方は平巻など素朴な物が多いが、片手巻にグルグルと簡単に巻いた物が多い様だ。
 握り幅だけ巻く形式は時代が下ると共に廃れて行く様だが、『雑兵物語』の中では糸巻が摺り切れてしまったので、解いた組紐を握り幅だけグルグルと巻き付け、後の部分はツタを巻き付けてごまかす様子が出てくる(注1)。そういった事を考えると、この古くて簡単な方式は後世も日常的に行われていた様にも思える。


3-2.巻下
 素木のままであったり、黒漆を塗った鮫皮の上に柄巻を施している。
 鮫皮も梅花皮鮫(かいらぎざめ。南シナ海・インド洋で採れるアカエイに似た魚の背面中央部の皮。古くからの輸入品。)や打鮫(金属の板を打ち出して鮫皮に似せた物)といった高級品は無く、泥鮫などの安価な材料(現在の巻下に使われている鮫革は同じ物)を使用している。
 変わった物では錦・麻布・革といった物や、藤・防己などもある様だ。


3-3.目貫
 目貫は元々目釘の役割も果たしていたが、既に装飾品となってる(太刀も同様)。よって略しても問題が無いので、通常は両面に入れる所を、片面のみに省略されている物も多い。目貫そのものを省略してしまっている物もある。勿論、正しく両面に入れている物もある。
 目貫自体も簡素で概念的形状の物や、簡略なデザインの物が多い。
 その上、金属製(銅)ではなく木製だったり、革・紙を丸めた物や鉄釘を代用品にした物まである。さらには柄巻に目貫の位置に結び目を作り誤魔化している物まである。

注1
『雑兵物語』「挟箱持ち」の項中。p.56〜57。


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