刀身の時代ごとの移り変わり


1.初めに

2.刀身の構造

2-1.「茎」
2-3.「身」:「造り」
       「反り」
       「踏ん張り」
       「峰・帽子・切先」

2-3.「部位の異称」

3.時代ごとの移り変わり

平安時代末期〜鎌倉時代初期
鎌倉時代中期〜末期
南北朝時代
室町時代
室町時代末期(戦国時代)〜織豊時代〜江戸時代
注意書き

4.最後に



主要参考文献

『新版日本刀講座・1』
『日本刀全集・2』
『作刀の伝統技法』



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1.初めに


 ここでは刀剣本体の形状について述べたい。
 刀身に関する興味は古今東西、刀装具と比して遙かに興味を抱かれ、鑑賞や収集の対象とされてきた。その分類も、時代のみならず地域や刀工、更には細かな刃紋に至るまで細分化され、多くの研究がされている。しかしながら、その様な微細に渡る分類や知識は多くの出版物に譲り、ここでは多くを語らない。語らないのは私に知識が無い事もあるが、このサイトの興味の対象では無いからである。あくまでも鑑賞する対象ではなく、一つの武器という道具史の中に位置づけたいからである。その為、最小限の事にしか触れない。鑑賞の対象としては大きな差異であっても、実際の兵器・武器・道具として考えた時に、さした差では無いと思われる事が多いからである。
 また形状の変化について、兵法(剣術など武術および戦術)や社会経済学、民俗学の視点から様々な考察がされているが、ここではそれを避けたい。理由は考えず、現実のみを列記するにとどめる。
 また中世をテーマとする以上、「上古代刀」に分類される直刀の剣、大刀等には触れない。「新刀(慶長新刀)」以降の刀剣については、境界が曖昧な部分があるので、必要な部分に付いてのみ触れる事とする。



2.刀身の構造

 刀剣の刀身は、刃の部分(「刃区」)と、握る部分とで構成されている。


図1・見本が模造刀なのは御愛敬。



2-1.「茎」

 刀身と柄が一体となっている蕨手刀(わらびてとう)や、毛抜形太刀を除いて、多くの日本刀は木製の柄の部品に、刀身を差し込む構造に成っている(もっとも蕨手刀や毛抜形太刀も、握る為の部品が付き、直接刀身を握る訳では無いが)。この柄に差し込まれる部分を茎(なかご)という。この茎の部分を柄に差し込み、通常は竹製の目釘を通して柄と固定される。この茎に刀工の名前や、後世には製造年月日が記される。


2-2.「身」

 鞘の中に収まる部分を「身」と呼ぶ。ここに刃を付ける訳だが、形状としては長さ以外にも多岐に渡る。全体の造り、反りの形状、切先の形状などである。

 「造り」:
 造りとは刀身の構造・形状であるが、太刀や打刀の多くは「鎬造」である。これは刃と、背中の棟(むね)、それを隔てる鎬(しのぎ)で構成されている形状で、断面図が菱形になる形状である。
 その他に、「菖蒲造」(鎬造だが横手と小鎬が無い)・「冠落造/鵜首造」(鎬造だが鎬が刃先で曲がって棟に流れる。図3参照)・「両刃造」「切先両刃造」「切刃造」(鎬の無いホームベース形の五角形)・「片切刃造」(鎬が無く、ハサミの刃の様に片面しか削ってない形)・「平造」(包丁の様に断面がVの字になった形)もある。
 腰刀や短刀、脇差といった短めの刀は、「菖蒲造」や「冠落造」、「平造」が多い。

 「反り」:
 太刀や刀には反りがあるが、何処で大きく反っているかで、「腰反」(「備前反」・「中国反」とも)・「鳥居反」(「京反」・「笠木反」とも)・「先反」がある。「腰反」は鍔元、「鳥居反」は刀身の中程、「先反」は切っ先三寸の物打ちを頂点に、それぞれ反りが付いている。また直刀ではない物の殆ど反りが付いていない物もある。これらの差は主に時代差による物である。
 短刀は「先反」「筍反(たけのこぞり)/内反」(刃の方に少し反った形)に分けられる。

 「踏ん張り」:
 これも形状の表現である。刃先に行くに従って身幅が細くなる様をいう。「強い」・「弱い」等と表現する。

 「峰・帽子・切先」:
 峰・帽子・切先(幾つかの表現方法があるが以下、切先に統一)は斜めに切り欠いた刃先の部分である。この切先と刃とを分ける線を横手と言い、横手から刃先までの斜めになった鎬を小鎬と呼ぶ。この横手を延長して棟に接した点(図2の点B)から先端(図2の点A)までの、棟の長さで「大」「中」「小」を分ける。
 またこの切先の刃に丸みが在る事を「ふくら付く」、丸みが少ない事を「ふくら枯れる」と読んで区別する。ふくらが全くなく直線になっているのを「かます切先」と呼ぶ。
 特にふくらが付き、切先の根元から刃先までが細らないつまった形状を、「猪首」と呼ぶ。
   

 図2 「峰・帽子・切先」

 見本が木刀なのは御愛敬。
 通常木刀は、「鎬造」。「小切先」で「ふくら」が豊かに付き詰まっている「猪首切先」である。



 図3

 良く出回っている廉価版模造刀の切先。
 画像では分かりにくいが、横手と小鎬が無く、鎬が帽子にそって湾曲し、矢印の部分で棟に接している。
 「鵜首造」である。



2-3.「部位の異称」
 刀剣学に流派などは特に確立されている訳では無いようだが、部位や造りの名称に諸説在るようである。これは故実に関する事では良くある事であるが、明文化された統一規格が在ったわけでは無いのだから致し方あるまい。
 例えば造りに関しても「冠落造」と「鵜首造」とを厳密に区別しない場合もあるが、それぞれ違う造りとして区別する説も在るようである。また切先を「切先」「帽子」「峰」と呼ぶ違いもあるし、「帽子」とは切先の焼き入れの入った刃の部分を指すという意見もある。
 参考にまで記した。


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3.時代ごとの移り変わり

 時代ごとの刀身の移り変わりに簡単に触れる。極力簡素にする為に、刃区の基本的な形状を基本とし、茎の形状については道具として特筆すべき事項のみ記す。
 なお、「大刀」「小刀」に区分けして形状の変化を記した。「大刀」には太刀や打刀等の通常の刀剣を、「小刀」には短刀・腰刀等の短い刀剣を、という風に大雑把に区分けした。


平安末期〜鎌倉初期
「大刀」:
 この時代に至って鎬造で反りのある日本刀の基本的形状が確立された。しかし「腰反」で鍔元で大きく反ってはいるが、全体としては反りが殆ど無い。身幅も狭く、重ね(棟の厚み)も厚くない。踏ん張りが強く、刃先は鍔元に比べて半分ほどの身幅に狭まっている物もある。切先は「小切先」である。
 この時代の太刀は片手打ち用とも言われ、短く反っている柄に合わせて、茎も短く反りもある。

「小刀」:
 この時代の遺物は殆ど無い。作られなかったとも、作られたが消費されてしまったとも考えられる様である。(注01)


鎌倉中期〜末期
「大刀」:
 この時代にいたり刀身の身幅が広く、重ねも厚く、踏ん張りも弱くなり、全体として頑強な姿に変化する。切先は「中切先」に伸び、「猪首切先」に成っている物も増える。反りは「腰反」から「鳥居反」に移行し、刀身全体が反る様な形になって行く。
 両手打ち用に成ったとも言われる様に、柄の長さが伸びて反りも少なく成るに従い、茎自体も刃区に比べて長めになる。

「小刀」:
 この時代に至り遺物が増えてくる様である。一尺未満で八寸(約24cm)前後の小振りで重ねも薄く、反りも直刀や「内反」、造りは「平造」の物で在るようだ。末期に近づくと九寸(約27cm)と長めの物や、「切刃造」「冠落造/鵜首造」の物も現れる。
 茎は真っ直ぐの物と、反りの在る物がある。
 特に中期から末期に書けて「振袖茎」と呼ばれる反りのきつい茎の物が存在する。これは柄の大きく反った脇差に使われた。この茎形式の利点としては、組討の際に「抜くのに手が滑らない」・「敵の首を掻き切り安い」・「目釘が折れても刀身が柄から抜け落ち難い」等、諸説在るようだ(注02)。この時代独特の形のようで、やがて廃れたようである。


南北朝時代
「大刀」:
 この時代の特徴は刀身の長大化で、「野太刀」「大太刀」「背負太刀」等と呼ばれる物まで現れた。こういった太刀は別物としても、平均寸法が二尺八寸(約84cm)前後で(注03)、時代区分としては最長に成っている。後世も続けて使われた遺物は、使いやすいように茎を摺り上げて短くされている程である。身幅も広く、切先も「大切先」であるが、重ねはそれに比べると薄目である。反りは前代と比べると緩やかになって来るが、「鳥居反」で全体に反って放物線を描く姿に成る。
 茎も長く頑丈な姿になる。
 余談だが、この時代の刀身が最も切れ味鋭いとされる。(注04)

「小刀」:
 短刀等でも幅広で、一尺(約30cm)を越える物も現れる。これらを「寸延短刀」・「平脇差」(平造の脇差)などと呼ぶようである。概して重ねが薄いと言う事も「大刀」と共通する姿である様だ。反りは「先反」が生じる様に成る。「切刃造」や「菖蒲造」、「鵜首造」の物もある。


室町時代
「大刀」:
 長大化した前時代の作風は廃れ、寸法は二尺三寸〜四寸(約69〜72cm)前後になり、切先も少し長めの「中切先」程度になる。反りは前代より弱められ、「先反」に変化しつつある。

 この時代の特徴は打刀拵の流行である。現存する遺物は殆ど無い物の、刃を上にして腰に差す打刀や腰刀は中世には既に存在していた。特筆すべきは、これらが太刀のごとく長大化し、太刀拵に取って代わっていった事である。この流行に合わせる様に、長目であった太刀を摺り上げて短くし、拵を取り替えて打刀に改造する例も非常に多かった。太刀を摺り上げて短くすると、必然的にバランスが代わり、(長さに比べると)太めで、反りも浅い刀身になる。太刀と同寸の打刀用刀身としては、応永年間(1394〜1427)の末頃に作られた少量の物が最古の物である(注05)。その頃から長寸の打刀(今で言う日本刀)が作られ始めたとされているが、当然更に時代をさかのぼるかもしれない。
 こういった打刀の寸法は様々であるが、二尺一寸〜三寸(約63〜69cm)程度の物が多い様である。また後世に脇差と呼ばれる様な短めの打刀・腰刀も作られ、これらは一尺五寸〜八寸(約45〜54cm)程度の寸法である様だ。
 これらの刀剣の特徴として、極めて短い茎が上げられる。太刀を摺り上げた物や、一部の例外はあるが、長寸の物から脇差程度の物まで同様に茎が短い。これは片手打ち用に柄が短い事から来ている様だ。

 (太刀と同寸の)打刀の登場とどの様に関わるかは分からないが、打刀が作られ始めたとされる応永の頃を境に、切先に「ふくら」が付けられ始めたのではないかとする一考がある。現存する遺物の多くは研ぎ直されていて、「ふくら」が付いている物もある。それ以前の太刀は原則として「かます切先」だった様である。原則として太刀は「かます」、打刀は「ふくら」付きであったという事が考えられるとしている。(注06)

「小刀」:
 前代と同じく一尺を越える「寸延短刀」・「平脇差」が作られた。前代と比べると身幅が狭くなる事に特徴がある。だたこの辺りの刀に関しては、長さの問題だけで、上記の短めの打刀や腰刀と区分けする程の差があるかは、筆者には良く分からない。
 一方で短刀も作られ、重ねが厚くなる事に特徴が在る様である。また様々な形状の短刀も作られた。「鎧通し」と呼ばれる物は、寸法が短いが重ねを厚くし、「ふくら」が枯れた、その名が示す様な姿をしていた。また両刃の短刀なども作られた。


室町末期(戦国時代)〜織豊時代〜江戸初期
「大刀:
 近世に入るに従い、打刀が一般化する。また大小の打刀二本を腰に差す二本差しの風習が定着した。この時の短い方の刀を貴人の物を腰物、一般の物を脇差という様になった。(注07)
 戦国時代に入った室町時代末期の天正・文禄(1573〜1596)頃になると、刀身の姿は身幅が広く、重ねは薄目、「大切先」で、「先反」の姿になる。踏ん張りと表現される事は無いようだが、物打ちから先が「ふくら」が枯れる、即ち身幅が狭まる特徴が在るようである。

 これが慶長の頃(1596〜1614)になると、物打ちから先の「ふくら」が枯れる事が無くなり、重ねも薄くは無く、「先反」も付かなくなる様だ。ちなみに反りは時代が下るに従い直刀に近づき、元禄年間(1688〜1704)前後には無反りに近い物が作られた。 こうした遍歴の中、おおよそ二尺三寸〜五寸(約70〜75cm)ぐらいで、反りの浅い打刀の刀身が、江戸時代には確立されていく様である。
 打刀の茎は徐々に、両手打ち用に太刀と同様の寸法の物が増え、江戸時代に至っては一般的となる。
 形状の変化以外にも、目に見えない材質の変化が起こる。南蛮鉄の流入で、その舶来の素材を刀身に使い始める。その材質の変化による、刃物としての性能の変化については一概に言えない様であるが、何らかの変化は在った物と考えるのが普通であろう。しかしここではこれ以上触れない。
 刀剣史では、慶長を境に、以前の物を古刀、以後の物を新刀(慶長新刀)と称するのが一般的だが、なにぶん工芸品故に厳密に線引き出来る物では無いようだ。(注08)

「小刀」:
 戦国時代には平脇差が流行する。平脇差の姿も時代色が出て、身幅が広く、重ねは薄目、「先反」で「ふくら」が枯れている。
 織豊時代後半から江戸初期になると一寸前後の短刀、寸延短刀、平脇差、切刃造の物などが流行する。
 江戸時代に入ってしまうと短刀の数は少なくなり、鎬造の脇差が一般的と成るようである。


注意書き
 幾つかの参考文献を元に、時代ごとの特色を抜き出してまとめてみた。
 しかしながら時代ごとの特色と言っても、現存する遺物の中から特色が分析されたに過ぎないという事に注意すべきであろう。例えば、平安末期〜鎌倉初期の太刀は細身で短めの姿が特色とされるが、遺物の中には南北朝時代のごとく身幅が広く長大な物もあり、実はこれらこそが一般的で、消耗されたからこそ遺物としては少ないのではないか?という説もある。(注09)
 また同時代であっても地域性や、刀工の特色もある。例えば室町後期の備前では鎬が高い形式を作っていているが、美濃の関では鎬は低く成っている。流通量では関の物が多い様で、作刀の技法も関に類似する地域が多く、全国的な作風としては後者といえるが(注10)、前者の作風を例に挙げている資料も在ったりする(注11)。ただ政治経済的な理由で刀剣生産地の勃興・盛衰があり、刀工達も移動し、合流・分派・交流する。この事により時代が下ると刀剣の作刀は普遍化し、地域色などは失われていく様ではある。(注12)
 さらにいえば工芸品的な刀剣と、手工業品的な「数打ち物」とでは自ずと違って来るであろうし、津々浦々の野鍛冶師によって作られた民具的刀剣は、上記のような典型的とされる時代の色を移しているかは疑問である。遺物が残ったり、露出する事も少ないのではないか(民具にありがちな話ではあるが)。

 使用という面に関して言えば、その時代に作られた物をその時代に使うとは限らない、という事を記しておく。南北時代〜室町時代の太刀を摺り上げて短くし、打刀拵にして使用していたのは良い例かと思う。


注釈:
注01:『新版日本刀講座・1』p.78
注02:『図鑑・刀装のすべて』p.39
注03:『日本刀全集・2』p.105
注04:『同上』p.104〜105
注05:『同上』p.117
注06:『同上』p.117
注07:『図説・日本武道辞典』「腰刀」の項。
注08:『新版日本刀講座・1』p.95〜98
注09:『新版日本刀講座・10』p.238
注10:『日本刀全集・2』p.128〜131
注11:『作刀の伝統技法』p.3-41
注12:『日本刀全集・2』p.131


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4.最後に

 刀身の時代ごとの移り変わりについて記してみた。
 時代ごとの特色は確かに見て取れるが、工業規格品ではないので地域性、刀工の個性は無論の事、(数打ち物や、同じ形の作品を量産もするであろうが)一本一本に個性がある。そこに共通性を見いだして簡潔にまとめるというのは、どだい無理なのであろう。論文によって内容が微妙に異なるのだ。これは参った。民具のようにアバウトにまとめられていればまだ良いが、下手に権威在る工芸品だけあり、その解説は微細である。それ故に異論が出てくる・・・。仕方なしに多くの例を挙げていく事になる。
 しかし文章にすると、なるほど(時代によって)違う物だなぁ・・・と分かった気になったが、現物を前にすると話は別である。微細な差は私には分からない。

 何はともあれ、最も反省すべき事は、この頁の文章を書きすぎたという事である。簡潔に各時代ごとに五、六行ずつでまとめるつもりだったのにである。最後にこんな蛇足の文章を書き連ねているのも、ストレスによるものである。告白すれば、私は(刀装具はともかく)刀剣が嫌いなのである。


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