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他の服飾品と同様に、日本に流入した被り物にも北方系の被り物と南方系の被り物が存在する。 北方系の被り物とは日差しや乾燥から頭部を守る「帽子(hat/cap)」であり、南方系の被り物とは日差しや雨から頭部を守る「笠」である(注1)。 日本の服飾は大陸や半島から流入した北方系の物が上層階級に取り入れられ、南方系の物が民間に定着し、時に混じり合うという事が起こる。後述するが冠や烏帽子の類も、大陸から流入し朝廷に取り入れられた被り物である。冠も烏帽子も「cap式の帽子」であるが、冠は元々布帛を頭に巻き付ける被り物が硬化してcap化した。布帛を頭部に巻き付けるといった被り物は南北どちらにもあり得るので、分類が難しいかもしれない。ただ輸入元の中国の服飾自体が、イラン系風俗を取り入れている事を考えると、北方系と分類出来るだろう。 注1:高田倭男『服装の歴史』p.34 |
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・〜先史時代 被り物 古くより頭部の保護と装飾の為に、被り物を着用したり、頭髪を調えたりという行為は行われていたに違いない。『魏志倭人伝』などには布を頭に巻き付けると言った様子が記されている。 古墳時代になると埋葬品や埴輪などから、様々な種類の被り物が在った事が分かる様になる。埴輪に山高帽の様な帽子の類を被った姿が見られ、また金属製冠などが出土する。一方で笠を被ったと思われる埴輪もある様で、他の服飾と同様に土着の南方系被り物の世界に、大陸・半島よりの北方系被り物が上層部の人々に流入し始めていた様である(注1)。 髪型 この頃、男子の髪形は未だ後世に繋がる髻はなく、斬りっぱなしで垂らすだけか、「美豆良(みずら)」と呼ばれる両側頭部に髪を束ねた姿、髪を短く切り頭頂で束ねた「たぶさ」と後世呼ばれる姿(後世の髻とは質が違う)などが見られる(注2)。 この時代の被り物や髪形は、未だ分からない事が多い様である。 注1:高田倭男『服装の歴史』p.34 注2:江馬務『日本の結髪全史』p.8 |
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被り物 髪型 この時代の髪形として「冠下」と呼ぶ様な形状が登場する。頭頂部に髪の毛を結いまとめた髪形で、髻の原型である。この髪形が服制に見えるのは天武天皇11年(682)で、これは「冠」「頭巾」の類を身につけるのに必要な髪形だったからである(被り方は後述)。これ以降、官人は髻を結う様に成って行く。 もう一つ忘れては成らない髪形として、仏教伝来と共に伝わった「剃髪」姿が挙げられる。 |
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被り物
髪型 髻も棒状の物から、元結で縛った部分よりも房が多い髻が増え、髻の位置も後頭部へとさがっていった。これは明らかに、烏帽子や冠を被らない事を前提とした髪型である。 更にこの傾向が進むと、髻を折り曲げてコンパクトに結う「髷(まげ)」が現れる。 (「大銀杏」や「文金風」の様な複雑な髷が結われる様になるのは、髪油が発達する江戸時代に入ってからである)
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中世の被り物文化に大きな影響を与えたのが、古代律令制以来の服制である。朝廷の権威と共に、全国津々浦々殿上人から凡下(庶民)に至るまで、その服装に影響を与えた。しかし中世後期の朝廷の衰退と共に、公家の世界や武家の儀礼などに僅かに残るだけで消えていったのが、服制の被り物である。 ここでは服制の被り物として『礼服の冠』『冠』『烏帽子』について述べたい。 |
『礼服の冠』 元々「大宝律令」以来の服制で冠と言えば、この『礼服の冠』を指した。 「礼服」とは即位式や朝賀といった儀式に際して着用する服で、朝廷におもむく時の最もかしこまった服装である。いわゆる「大礼服」である。この「礼服」着用時の被り物が『礼服の冠』である。 形状は「漆紗冠」に、頭頂部に方形の板を付けたり、金属製の王冠や箱組、装飾物を着けたり、玉飾りを垂らしたりした物で、身分により様々な種類が在った様だ。しかし遺物が無く、残された絵画資料などから姿を推測できるのみで、詳細な事は分からないのが現実の様だ(ここでは主題がずれるので多くは触れない)。 平安時代に礼服が廃されて後、姿を消している(後醍醐天皇の肖像画に、その姿が復活するが)。 |
『冠』 元々は『頭巾(ときん)』と呼ばれる被り物(修験者の「頭巾」とは別物)で、「朝服」・「制服」(朝廷に出仕する際に着用する。前者は官人用。後者は無位の人間用)の着用に際して被られた。これが後の『冠』と呼ばれる物になる。 『頭巾』は、中国では「ボク(巾扁に業)頭」と呼ばれた物で、方形の布帛で四隅に紐が付いた被り物である。着用の仕方は、先ず頭の頂きに髪をまとめて髻の様に結い上げる。この原始的な髻に『頭巾』被せ、四隅の紐二本づつ前から後へと、後から前へと廻して、髻の根本で各々結び留め、二本の紐を後方に垂らした(頭巾の着用方法には諸説在る。注1)。 律令制の中では『頭巾』の名で呼ばれてはいたが、七世紀の後半には「漆紗冠」へと既に変化していた様だ。これは方形の布帛だった物が、黒漆を塗った袋状の「巾子(こじ)」の付いた帽子(cap)へと進化し、(まだ柔らかかった様で)「巾子」に髻を入れて、付属の紐で「巾子」の根本を外側から巻き留め、余った紐を後に垂らした様である。 『頭巾』の名が『冠』に成る中で、形状にも更なる変化が生じた。「巾子」の根本に結び付けた後、後方に垂らしていた二本の紐(燕尾。えんび)が型式化して「纓(えい)」になる。そして更に漆で塗り固める様になり、「巾子」の根本を紐で締めて髻に結び留める事が出来なくなる。そこで「簪(かんざし)」を使って髻に刺し留める様になる。 その他、飾りを付けたり、様々な形状の異なる『冠』の種類が誕生するが、ここではこれ以上触れない。
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「烏帽子」の頁参照。 |
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