烏帽子



初めに

 中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と区分けされて呼ばれる事がままある。この時の「帽」が指し示す物こそが、「烏帽子」である。烏帽子は中世日本の成人男子に於いて、最も基本となる服飾であった。
 ここでは烏帽子という被り物が、どの様に成立し、変化し、どういった種類が生まれたのかという歴史を追いたい。

1.烏帽子の成立


2.烏帽子の部位名称


3.烏帽子の種類

3-1.立烏帽子
3-2.風折烏帽子
3-3.侍烏帽子
3-4.揉烏帽子
3-5.細烏帽子



4.烏帽子の被り方

【追記】
(05.08.10)



5.戦場での烏帽子

5-1.烏帽子の用い方(兜着用の時)
5-2烏帽子の用い方(兜を着用しない時)
5-3.烏帽子と鉢巻
5-4.様々な烏帽子着用の姿
5-5.戦場から消えゆく烏帽子



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1.烏帽子の成立




 律令制の服制の中に「圭冠(はしばこうぶり)」という略帽の名がある。これは中国唐代の「烏紗帽(うしゃぼう)」から来た被り物で、貴人が「礼服の冠」の下などに着用した帽子であるが、官人や庶民が日常的に着用した様である。黒い薄物の布帛製ではあるが、形状は良く分かっておらず袋状の帽子だったのではと推測されている様だ(注1)。これが後の「烏帽子」へと連なってゆくとされる。
 「圭冠」と呼ばれた被り物が、遅くとも十世紀頃までには『烏帽子』へと変化した様である。平安末期の十二世紀には広く普及し、成人男子の一般的な被り物に成った(注2)。「圭冠」は略帽として、また庶民の被り物として常時着用されていたが、『烏帽子』も同様に殿上人から庶民に至るまで、戸外は勿論、室内でも私服として常時着用されている。

 『烏帽子』は「冠」と同様に、当初は薄物の絹や麻を漆塗りして作られた柔らかな物であったがが、平安末期の鳥羽上皇の時代に強装束が流行ると、漆で塗り固めた紙製の硬い物も現れる(注3)。
 鎌倉時代に入ると、硬化した『烏帽子』は不安定だと、機能性を求める狩装束や武家装束の為に先を折り曲げた「風折烏帽子」が生まれる。鎌倉時代の末には、よりコンパクトに折り曲げた「侍烏帽子」が使用されるようになり、武家装束として定着する。
 より安定感を増す為に「頂頭懸(ちょうずがけ)」(後述)を併せて用いる様になり、これも武家装束として定着する。しかし一方で公家は、中世期には、こういった紐を用い無かった(注4)。
 ただ一般庶民は、常に柔らかな「烏帽子」を被っており、また戦陣では武家も柔らかな「烏帽子」を被り、その上から兜を着用した。

 中世を通して基本的には、公家は「立烏帽子」、武家は「侍烏帽子(折烏帽子)」、庶民は「萎烏帽子」という図式が出来上がる。(注5)

 古代末期から中世前半にかけて成人男子の常の被り物であった『烏帽子』も、近世に近づくに従い徐々に廃れて行く。特に庶民レベルでは鎌倉時代後半から露頂の姿が見え始め、日常的に烏帽子を着用するという風俗が消えてゆく(注6)。
 室町時代には徐々に形式化し様々な故実も生まれ、公家や武家に於いても日常的な被り物では無くなって行く。特に応仁の乱(1467〜77)以後は、露頂の武士が増える(注7)。
 室町時代後期から戦国時代の頃には、武家は無論、公家に至っても露頂が増え、完全に儀礼的被り物と化してしまい、近世を迎える事となる。



注1:宮本馨太郎『かぶりもの・きもの・はきもの』p.64
注2:小田雄三「烏帽子小考」 『近世風俗図譜』第十二巻p.136
注3:宮本馨太郎『かぶりもの・きもの・はきもの』p.65
注4:小田雄三「烏帽子小考」 『近世風俗図譜』第十二巻p.137
注5:同上p.136
   ただ職人達には、また別のルールが在ったように見える。
注6:露頂が増えるのは南北朝の動乱や応仁の乱といった、依存の秩序や産業を破壊するような争乱がきっかけで段階的に進んでいく様だが、同時に文章や絵画で描写される地域や階層が広がった事も考慮に入れるべきだろう。現に烏帽子着用が当然の時代にも、露頂をする身分や地域は存在している。
注7:広川二郎「服飾と中世史ー武士と烏帽子ー」『絵巻に中世を読む』p.90

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2.烏帽子の部位名称




 ここでは烏帽子の各部位の名称と、烏帽子の形状変化の変遷を各部位を中心に観ていきたい。
 部位の説明は下の図を参照に行い、その他の図版を用いて補完する。なお下の図は『貞丈雑記』の図版を元に、若干の手を加えた。元々の図版が部位が分かるように、かなりのディフォルメがされている。実際の烏帽子の形状とはかなり違う事に留意されたい。

「立烏帽子図」
(『貞丈雑記』の図を元にした表で、部位が分かるようにディフォルメしてある事に留意)

@まねぎ
 烏帽子前部中程を窪ませて着用する際に生じる上部の突起。
 烏帽子前部の中央を押し込んで着用するように成ったのは、平安末期の強装束化で烏帽子が硬く成ってからの事である。
A雛頭(ひながしら)
 烏帽子前部窪み内部の凹凸を固定化した物の凸部を指す。
 『類聚名物考』などでは、硬化した烏帽子の前部を凹まして被るように成った際に生じた部位としているが、室町時代に至って形式化したという説もある。(注1)
B眉(まゆ)
 烏帽子前部窪みの凹みを固定化した物。
 「雛頭」と同様に、『類聚名物考』では強装束化の際に生じたとされるが、室町時代にいたって形式化したとも言われる。(注2)
 眉には左右にある「諸眉」、片側だけにある「右眉」「左眉」、小さめの物が左右にある「小諸眉」等の種類がある(図版は「諸眉」)。この使い分けには故実がそれぞれある。故実には諸説在る為、ここでは略す。
C額(ひたい)
 烏帽子前部の窪みの下部をいう。
D峯(みね)
 烏帽子頭頂部の事。
E縁(ふち)
 烏帽子のヘリ部分。
 近世以降はヘリを付けて漆塗りにしている。『類聚名物考』によれば、中に芯を入れて蛤の様な形にした物もあるという。芯に鉄を入れて防御効果を狙った物もあるというが、総じて新しい物である様だ。
 中世以前は縁を渋引きにしたり、厚めに漆を塗ったりして縁取りをしただけである。萎烏帽子は鉢巻を締める関係か、近世に入っても縁を作らない。
F風口(かざぐち)
 烏帽子と後頭部の隙間。通気口の役目を果たす。
G小結(こゆい)
 烏帽子を髻に縛り付ける為の紐。
 当初は下図矢印の様に烏帽子内側に取り付けられた紐であった。

図0-1
『福富草紙』より
 侍烏帽子の場合は髻の元結(巻き締めた根本の部分)に紙縒(こより)を巻き付け、紙縒の端を、烏帽子後部の穴から刺し通して外側で結んで「小結」とした。外に出した「小結」の結び余りを長くする「長小結」の方法がある。これは少年の烏帽子に行われたが、15世紀後半頃には大人の武士にも行われた様である(注3)。
 また「小結」の端を同様に長くして、「頂頭掛」の様に「巾子」に結び付ける方法も行われた。この様な「小結」の使い方は、決して「頂頭掛」と併せて行われる事はなく、どちらかを行った。烏帽子掛の様な「小結」の使い方も、どうやら15世紀後半頃には行われていた様である。(注4)
 その一方で近世にはいると、侍烏帽子の外に出た「小結」は飾りになり、Hの様な「烏帽子止」の付いた形の物が別に付く事になる。
H烏帽子止/烏帽子留(えぼしどめ)
 「烏帽子止」或いは「烏帽子留」が指す部品は二つがある。
 一つは平安時代末期に流行った物で、冠の簪(かんざし)の様に、烏帽子と髻を外側から貫く串の事を言う。(注5)
 もう一点は「とんぼ」とも呼ばれるピンで、「小結」の先に付けて、髻や髷に指して烏帽子を固定する。図版の物はこれ。



「侍烏帽子図」
『後三年合戦絵詞』より
I巾子(こじ)
 髻を入れるふくらみ。侍烏帽子は、この部分を残して折り畳んだ烏帽子である。
 結び余りを長く伸ばした「小結」でからみつけるのも、「頂頭掛」をからみつけるのも、ここに行う。
 《まねぎ》
 「巾子」が形式化した物。
 これは中世末期から近世に至って髻を曲げた、よりコンパクトな髷(まげ)を結う様に成った事で、髻を収める「巾子」が不要に成った。よってこれが退化して烏帽子前方に三角形の板を取り付けた「まねぎ」に変化する。
J頂頭懸(ちょうづかけ)
 「小結」だけでは不安定な為に使われた組紐。上記図のように、烏帽子の「巾子」に引っ掛けて、アゴの下で結び止める。
 使われ始めたのは鎌倉時代頃の様で、当初は特に激しい動きを必要とする時に取り付けられた。しかし後には武家の正装として加えられ、鎌倉・室町両幕府共に、武士以外の「頂頭掛」の使用を禁じた。(注6)
 前述したが「小結」を烏帽子掛の様に使う際には、「頂頭掛」は用いられない。
 この「頂頭掛」の色の組み合わせにも、様々な故実が在るようである。
 《掛緒(かけお)》
 「烏帽子掛」などとも言い、立烏帽子や風折烏帽子に用いる掛紐。
 通常は紙捻(こびねり)で、勅許が在った場合のみ紫の組紐を用いた。紙捻を用いる際は、アゴの下で結び切りにするのに対して、組紐は蝶結びにして長く結び垂れた。
 「頂頭掛」「掛緒」の類は武家の装束というイメージが在る為か、中世期には公家は用いなかった様である。(注7)
K錆(さび)/皺(しぼ)
 烏帽子の表面に作られた凹凸の模様。
 本来は烏帽子が柔らかな布帛製だった頃のシワを模した物で、後に烏帽子が紙に漆を塗り込めた様な硬い物に成ってからは、木型で凹凸を付けた。
 大さび・小さび・柳さび・横さび等、様々な種類があり、それぞれに故実がある(故実にも諸説あり、ここでは略す。ただし横さびは侍烏帽子に使われる)。また全く「さび」の無い烏帽子もあり、「きらめき烏帽子」と呼ばれる。
 

注1:宮本馨太郎『かぶりもの・きもの・はきもの』p.65
注2:同上p.65
注3:広川二郎「服飾と中世史ー武士と烏帽子ー」『絵巻に中世を読む』p.92
注4:同上p.88
注5:小田雄三「烏帽子小考」 『近世風俗図譜』第十二巻p.137
注6:広川二郎「服飾と中世史ー武士と烏帽子ー」『絵巻に中世を読む』p.88〜89
注7:小田雄三「烏帽子小考」 『近世風俗図譜』第十二巻p.137

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3.烏帽子の種類




 烏帽子には形状や表面処理・色などによって、様々な名称が存在し、異称も多い。一つの烏帽子のどの部位や形状に着目するかで、名称も変わってくる。また中には、どんな物を指しているのかが不明なままの名称も数多くある。

 ここでは基本的な四種類の烏帽子(「立烏帽子」「風折烏帽子」「侍烏帽子」「萎烏帽子」)と、戦陣に関わる特殊・亜種的な一種類の烏帽子(「細烏帽子」)に付いて、その派生と形状の変遷を観てゆきたい。




3-1.立烏帽子

図1:立烏帽子
『松崎天神縁起』より
 本来は烏帽子と言えば立烏帽子を指し示したが、後世に種種の折烏帽子が成立するに至って立烏帽子と呼ぶように成った。
 基本的に立烏帽子は殿上人の被り物である。烏帽子自体が私服であるから服制に縛られてはいないが、服装が身分のシンボルでもあった中世に於いて、それ以 下の身分(地下人・凡下)の者は被る事が出来ないと言っても過言では在るまい。武家も朝廷の関わる改まった席では立烏帽子を被ったが、室町時代頃からは公 家だけの被り物と成っていく。(注1)

 立烏帽子の形状にも時代の変化があった。
 殿上人の服装が強装束化した平安時代末期には、烏帽子の前を少し凹まして被る事が行われ「まねぎ」が生じた。
 室町時代には、より形式化して装飾的になる。これにより「眉」「雛頭」といった部位と名称が生じ、様々な故実が言われるようになる。(注2)
 立烏帽子にも頂頭懸と同様な「掛緒」を用いる様に成った。頂頭懸と違うのは組紐ではなく「紙捻(こびねり)」を用いる点である。特別に許された者は組紐 を用いた(注3)。ただし中世を通して公家がこれを用いる事は無かった様でり、近世に入ってから主に用いられた物の様である。
 近世に入ると立烏帽子の高さが低くなり、箱の様な形状になる。伊勢貞丈によれば立烏帽子の横と縦の長さの比率は1:1であり、それよりも縦の丈が長い烏 帽子を「長烏帽子」と呼ぶとしている。中世期の絵巻物に描かれる烏帽子は殆どが丈が長く、貞丈の言う比率は、江戸期の比率であろう。




3-2.風折烏帽子


 折烏帽子の一種。平禮(ひれ)とも呼ぶ。
 折烏帽子は基本的に地下人、特に武家の被り物である。しかし応仁の乱以降、殿上人も狩りや蹴鞠の際に狩衣と共に着用し、公家故実の中に取り込む様に成った(注4)。略儀の烏帽子と言える。
 元々立烏帽子が漆塗りの布帛製で在った頃は、烏帽子の先が風で自然に左右に折れ、衣紋を正す時に引き立てて立烏帽子にした。強装束と共に烏帽子が漆塗りの紙製に成ると、立烏帽子とは別の折烏帽子として作られる様に成った。
 形状は立烏帽子に準じ、近世以降に掛緒をする場合も紙捻を用いる(注5)。しかし武家は中世に折烏帽子には頂頭懸を用いた様であるから、風折烏帽子にも組紐の頂頭懸を用いたのであろうか(注6)。
 風折烏帽子には右折(右側に倒す)と左折(左側に倒す)がある。上皇が着用する際には右折を用いるので、諸臣は左折を用いるという(注7)。また『源平盛衰記』には、源八幡太郎義家が左折の烏帽子を用いた為、源氏の大将は左折を用い、他の物は右折を用いたという記述がある。




3-3.侍烏帽子

 折烏帽子の一種。立烏帽子を細かく折り、漆で塗り固めた。折り方には様々な手法があり、各家ごとの故実と成っている。(注8)
 成立は鎌倉時代後期といわれ、本来は武家が着用した私服であったが、武家社会での正装となる。よって朝廷が関わる席では立烏帽子を被り、武家社会の行事や席では侍烏帽子を被った。(注9)
 侍烏帽子を被る際は、他の烏帽子と同様に「小結」を用いる。内側で髻に結び付ける訳だが、更に安定させる為に小結の先を烏帽子後部側面に開けた穴から外に出して結んだ。この烏帽子の外で結んだ小結が長い物を「長小結烏帽子」と呼び、伊勢貞丈によると少年が被ったというが、16世紀以降は年長者の烏帽子にも見える。(注10)
 小結だけでは安定が悪かった様で、武家は組紐を用いた「頂頭懸」を折烏帽子に掛けて、アゴで結び止めた。本来は活動的な行為をする時に取り付けていた様だが、武家の正式な服飾と成り、鎌倉幕府と室町幕府共に、武士身分以外の物が頂頭懸をする事を禁じた。(注11)

図2:頂頭掛をした侍烏帽子
『石山寺縁起』より

 室町時代末になると、この侍烏帽子も形式化して普段は被られなくなり、形状にも変化をきたす。例えば細かい横サビを入れたり、外に露出した小結は飾りに成って「烏帽子留」で髻に留める様になる。特に大きな変化は「巾子」が「まねぎ」に変化した事であろうか。江戸時代に至って、「納豆烏帽子」と呼ばれるように成る。(注12)



 

3-4.萎烏帽子 【別称:揉烏帽子/梨打烏帽子/引立烏帽子】


 羅や紗、精好といった薄物の絹や麻を用い、五倍子で染めたり、薄く漆を掛けたりして、柔らかく仕上げた烏帽子。伊勢貞丈によれば、渋と漆を引いた薄紙製の裏地を着けるという。
 本来の烏帽子は皆このタイプであり、普段は前後左右に垂らしたり折り曲げたりして着用し、改まる時は上に引き立てて着用した。それが強装束の普及で烏帽子が硬化すると、こういった柔らかな烏帽子は、公家でも武家でもない一般庶民を中心に被られるか、或いは戦陣衣装として被られた。
 このタイプの烏帽子には様々な呼び名があるが、「萎」「揉」「梨打(元は「なやしうち」)」は柔らかな造りを表現しているに過ぎない。また「引立烏帽子」は兜を被る際に後に折り曲げ、脱いだ時は引き立てて立烏帽子の様に被る様を表現しているのであり、これは他の柔らかな烏帽子と変わらない。つまり全て柔らかな烏帽子の異名に過ぎない。(「引立烏帽子」の形状の特徴として、烏帽子の先端がとがっている事を『貞丈雑記』では挙げているが、恐らく近世に入ってからの故実の様に思う。注13)
   
図3(左):烏帽子を引き立てて着用している様子  『蒙古襲来絵詞』より
図4(右):萎烏帽子を着用する職人  『松崎天神絵詞』より




3-5.細烏帽子


 鎌倉時代以前は専ら武家が用い、その後は公家も用いたという「細烏帽子」に付いて言及したい。『太平記』などにその名が見え、伊勢貞丈は『後三年合戦絵詞』の中に姿を見いだしている。
 『貞丈雑記』によると、硬く漆塗りはせず柔らかに作るとしており、先の細い萎烏帽子の様だ。ただ例に挙がった『後三年合戦絵詞』を観るに、確かに先が細い様に見えるが、萎烏帽子を引き立てて被っている描写にも見えるし、風折烏帽子の様にも見える。絵師による表現の違いという可能性もある。またもしかすると当時(題材は1083〜87年の「後三年の役」だが、製作は鎌倉時代後期)の引立烏帽子の形状を表しているのかも知れない。

図5:細烏帽子
『後三年合戦絵詞』より




注1:広川二郎「服飾と中世史ー武士と烏帽子ー」『絵巻に中世を読む』
   (公家と武家に於ける服飾としての烏帽子に付いては、この論文から大いに教授を受けた)
注2:宮本馨太郎『かぶりもの・きもの・はきもの』p.65
注3:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.89
注4:広川二郎「服飾と中世史ー武士と烏帽子ー」『絵巻に中世を読む』p.96
注5:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.94
注6:広川二郎「服飾と中世史ー武士と烏帽子ー」『絵巻に中世を読む』p.88
注7:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.94
注8:烏帽子の織り方の様々は、笹間良彦『資料・日本歴史図録』にて手軽に参照出来る。
注9:広川二郎「服飾と中世史ー武士と烏帽子ー」『絵巻に中世を読む』
注10:同上p.92
注11:同上p.88〜89
注12:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.116
注13:この手の烏帽子の制作方法や名称に付いては伊勢貞丈の著述におう所が多いが、貞丈の考証は江戸時代に入ってからの事柄も多分に含む為、中世期の烏帽子を考察する際には疑問を感じる点も多い。

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4.烏帽子の被り方




 『烏帽子』の着装方法についても触れる。

 『烏帽子」は基本的に髻(もとどり)に固定して被られる。
 内側に着けられた留め紐である「小結(こゆい)」を髻に結び留めるのを基本とした。後に(特に髻が髷【まげ】に変わると)「小結」に着けられた「烏帽子留」なるピンを付け、これを髻に差し込み固定した。また平安時代末期には一時、「烏帽子止」という簪(かんざし)を刺し通して固定したという。(注1)

図6:髻の根本に小結を結び付けているのが良く分かる
『福富草紙』より

 しかしこれでも不安定な為、武家は「侍烏帽子」などには「頂頭掛(ちょうずかけ)」をする様に成った。また「揉烏帽子」などは「頂頭懸」を取り付けられない為、アゴ紐をつけられた様である。
 時代が下ると(特に近世)「立烏帽子」「風折烏帽子」にも「頂頭掛」の様な「掛緒」を用いたが、こういった着装方法は武家の風として、中世の公家は用いなかった。

図7:「萎烏帽子」にアゴ紐を着けた水手(かこ)
『蒙古襲来絵詞』より


【追記】

 小結の形状について、私は烏帽子内側に付けられた紐は、二筋の物であったと誤解していた様であり、その点に付いては一部記事の内容を修正した。
 また「萎烏帽子」を再現する課程で、小結が一筋の形状である事を知ったのと同時に、図7の水手がしているのは顎紐では無いのではないかという推測に至った。この水手がしているのは、小結を髻に結びつける従来の着装方法ではなく、小結を顎にかけて着装しているのでは無いだろうか?
 小結は丁度、顎にかけられる様なループ上であり、また長さも『福富草紙』の描写(図0-1参照)から推測すると丁度良い。
 海風の吹く中、敵の船団に向かって炉を漕ぐ様な状況で、小結を髻に結び付ける様な被り方よりも、小結を顎紐代わりにする方が、遙かに活動的である様に思われる。こういった被り方は、激しい運動や強い風が予想される状況下では、一般的な着装方法の可能性もある。
 詳しくは『中世軍品復元館』「萎烏帽子」の頁を合わせて観て頂きたい。


注1:小田雄三「烏帽子小考」 『近世風俗図譜』第十二巻p.137



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5.戦場での烏帽子




 「被帽の時代」であった中世では普段と同じ様に、戦場でも烏帽子が被られた。戦場で被られた烏帽子は総じて「萎烏帽子」「引立烏帽子」等と呼ばれる柔らかな烏帽子であった。
 こういった柔らかな烏帽子が被られたのは、過酷な戦場でも被る事の出来る、もっとも機能的な烏帽子であったからであろう。硬くてかさばる儀礼的な烏帽子など頭に乗っけて立ち働けといっても、到底不可能である事は言うまでもない。
 もう一つ柔らかな烏帽子が用いられたのは、兜のライナーヘルメットとしての機能があったからである。

 戦場の烏帽子は、中世初期には通常の柔らかな烏帽子を被る時と同じ様に、髻を結って被られた。それが鎌倉時代中頃から、髻を放ちて乱髪とし、鉢巻で烏帽子を固定する様な着用方法が流行する。これが室町時代に至ると武家故実化する。
 この着用方法の変化と、細かな部分について観ていきたい。



5-1.烏帽子の用い方(兜着用の時)


 兜を被る身分の者は、その下にライナーヘルメット代わりに柔らかな烏帽子を被る事は既に述べた。鎌倉時代の末期頃から兜の内側に受張を取り付ける構造が現れて来るが、それ以前は兜と頭の間に緩衝材になる物が無かった。それ故に、烏帽子がこの役目を果たしていた。
 更には、烏帽子で包んだ髻を「頂辺の穴(兜頭頂部に空いた穴)」に通す事で、兜の揺らぎを防いでいた。

 鎌倉時代の中頃に成ると、その着用方法に変化が見える。
 先ず「頂辺の穴」から烏帽子に包んだ髻を出す被り方は改められる。その結果か、或いは原因かはともかくとして、「頂辺の穴」が小さくなる(この穴は防御上の弱点であった)。
 伊勢貞丈の『軍用記』によれば、「頂辺の穴」から髻を出さなくなった後の烏帽子は、後に折り、余った先端部を織り込めるようにして頭に撫で付ける様に着用した。兜を脱ぐ際は、これを引き立てて格好を付けた様である。
 着用方法が変化した後の烏帽子の下、髪形に付いてであるが良く分からない。少なくとも通常の髻は結べないだろう。何故なら髻を結んでいては、兜着用に邪魔に成るからである。よって乱髪にして烏帽子を被るという、烏帽子の着用としては異様な被り方が流行り始め、室町時代の頃には故実化する。(注1)
 ただ「頂辺の穴」から髻を出さなくなった時代の描写である『蒙古襲来絵詞』には、乱髪ではなく、烏帽子の中に髪をたくし込んでいる姿も多く散見する。図3・5等を参照。これは恐らく、ポニーテール状にして髪を烏帽子の中に収めているのでは無いか?(注2)

図8:乱髪にして烏帽子を着用する武士
『蒙古襲来絵詞』より



5-2.烏帽子の用い方(兜を着用しない時)
 烏帽子を被る身分の者は軍陣であろうとも、軍陣であるからこそ、烏帽子を着用した。これは兜を被らない身分の者(つまりライナーヘルメットとして烏帽子を必要としない者)であっても同様である。
 烏帽子の被り方は兜を着用する際と同じであるが、人前に出て装いを正す際には、後に折れたりした烏帽子を引き立てた。
 また兜着用を想定していない者で在れば、(「頂辺の穴」が小さくなった後でも)髻を結ったまま着用している可能性も大きいのではないかと推測する。



5-3.烏帽子と鉢巻
 軍陣での烏帽子について触れる際に、鉢巻に言及しないわけには行かない。
 いつ頃かは良く分からないが戦陣の烏帽子着用の際に、鉢巻を用いる様に成った。これには二つの目的があり、一つは烏帽子を固定する為であり、もう一つは兜の揺るぎを押さえる為である。
 烏帽子に鉢巻姿というのは定番の様であるが、実はそうでも無い。故実化したのは室町時代頃からの様で、それ以前は必須のアイテムでは無かった。

 先ず烏帽子を固定する目的においてであるが、比較的軍装が忠実に描写されているとされる『蒙古襲来絵詞』を観ると、図7の水夫もそうであるが、鉢巻をしていない者も散見する。水夫はアゴ紐をしているからであるが、鉢巻をしていない者は髻を結って小結だけで留めているのかも知れない。
 乱髪の者と、剃髪をしていると思われる者は、必ず鉢巻を着用している。これは髻と小結で留められないのだから当然であろう。即ち、乱髪でなければ鉢巻は必須では無いのである。

図9:甲冑と萎烏帽子を着用する御家人。乱髪・鉢巻姿では無い事に注目。
この絵巻物の中では「頂辺の穴」から髻を出す兜着用は行われていない。
『蒙古襲来絵詞』より

 次に兜の揺るぎを押さえる目的においてである。これは鎌倉時代中期以降、前代に比べて兜の鉢が大きく成り、鉢と頭部の間に隙間が生じた。それ故に受張の発達をみるのだが、それだけでは不十分で鉢巻をする事で揺らぎを補完した(注3)。つまり前代の小さな鉢の時代や、鎌倉時代中期以降も古い型式の小さな鉢を被っている者にとって、鉢巻は必要ではない。

 上記のように軍陣の烏帽子に鉢巻は必須では無かったが、乱髪姿が増え、兜の鉢が大きくなると必須のアイテムとなり、鎌倉時代後期以降に流行し、室町時代至っては故実化する様である。
 ただそれ以前の時代に於ける鉢巻着用が無かったとするものでは無いし、その比率については良く分からない。少なくとも、その数はイメージよりは少なそうである。

 もっともこれは兜を着用する身分の人々の話であり、それ以外の者に取っては関係無かろう。彼らにとっては鉢巻は、それ自体の機能性と、烏帽子を固定させる意味以外にはあり得ないのだろう。在れば便利なアイテムという位置づけなのだろうか。
 兜を被らない身分の烏帽子と鉢巻の組み合わせに付いての流行は良く分からない。その組み合わせを散見するが、兜を着用するような高位の者に比べると、烏帽子着用自体が早く廃れてしまったのは確実な様だ。



5-4.様々な烏帽子着用の姿
 先ほども述べたが、『蒙古襲来絵詞』だけを眺めていても、様々な烏帽子着用の姿を見る事が出来る。総じて戦場故に柔らかな烏帽子であるが、乱髪・剃髪で鉢巻をした者(図8)、髪をたくし込んで鉢巻をした者(図3)、髪をたくし込んで鉢巻をしていない者(図9)、髪をたくし込んで鉢巻はせずにアゴ紐をした者(図7)。中には露頂の者までいる。
 これらの姿を眺めていても、身分差による違いとは限らない様である。例外としては水夫と御家人の一人河野通有が挙げられる。露頂とアゴ紐付き烏帽子は水夫に限られるし、河野通有は露頂しているが、これは家の故実に従った特異な姿である。
 この元寇の時代が軍陣装束の過渡期であったのかも知れないが、実に多彩な烏帽子着用の姿が描かれている。また河野通有の露頂姿は、各家の故実によって様々な着用スタイルが在った事を感じさせる。

 また絵巻物には甲冑着用時に、立烏帽子や侍烏帽子を着用する姿が描かれている事がある。『源平盛衰記』の中で平清盛が、甲冑着用時に立烏帽子を被る描写が出てくる。これは何を現しているのであろうか。
 実際にそういった姿が在ったのかも知れない。戦闘発生の恐れのない後方に在る時や、閲兵、普段の警備任務に際しては、実際にその様な着用が考えられなくもない。ただ、野営時や戦闘時に(侍烏帽子ではあるが)その様な描写があるのは、否定は出来ないが、不自然な感じを受けなくもない。
 或いは記号的表現の可能性である。烏帽子は極めて身分標識的服飾であるからである。描かれた登場人物が殿上人なのか、単なる侍なのか・・・そういった記号的表現として使われる可能性も大きい(侍烏帽子誕生以前の時代をテーマとした絵巻物に、立烏帽子と侍烏帽子が並んで描かれているのが良い例である)。視覚的資料の落とし穴の可能性である。

 幾ら信憑性がある資料とはいえ『蒙古襲来絵詞』に依存しすぎているきらいを自身で感じるが、この絵巻物の中の戦場・戦陣の場面で、一切侍烏帽子が被られていないというのが、非常に気になるのである。



5-5.戦場から消えゆく烏帽子
 戦場から完全に烏帽子が消えてしまう事は無かった様である。それは戦陣装束が、武家にとっての晴装束という一面が在ったからなのだろう。室町時代には乱髪・揉烏帽子・鉢巻というセットが、武家の故実として成立するが、故実と成った時点で道具としての機能性は失われていたのかも知れない。
 同時に時代は「被帽の時代」から「無帽の時代」へと切り替わっており、烏帽子を被る必然性も失われていた。
 戦場・戦陣の被り物としては、烏帽子に代わって鉢巻(帯状に頭に結ぶ方法・頭を包む方法)や頭巾が戦陣で使用されるようになる。特に烏帽子を略した乱髪・鉢巻のスタイルが室町時代から流行る様になり、上杉謙信の例に在る様に、武将クラスの者ですら烏帽子を被らなく成った(注4)。絵画資料の世界でも、露頂や鉢巻姿が大部分を占めるようになる。
 この様に烏帽子は、戦場に於いても、(絶滅しないまでも)その姿を消してゆくのである。



注1:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.160。
注2:『蒙古襲来絵詞』の無帽の姿の者の髪形から想像した。
注3:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.159。
注4:笹間良彦『図録・日本の合戦武具事典』p.242


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