5.戦場での烏帽子
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「被帽の時代」であった中世では普段と同じ様に、戦場でも烏帽子が被られた。戦場で被られた烏帽子は総じて「萎烏帽子」「引立烏帽子」等と呼ばれる柔らかな烏帽子であった。
こういった柔らかな烏帽子が被られたのは、過酷な戦場でも被る事の出来る、もっとも機能的な烏帽子であったからであろう。硬くてかさばる儀礼的な烏帽子など頭に乗っけて立ち働けといっても、到底不可能である事は言うまでもない。
もう一つ柔らかな烏帽子が用いられたのは、兜のライナーヘルメットとしての機能があったからである。
戦場の烏帽子は、中世初期には通常の柔らかな烏帽子を被る時と同じ様に、髻を結って被られた。それが鎌倉時代中頃から、髻を放ちて乱髪とし、鉢巻で烏帽子を固定する様な着用方法が流行する。これが室町時代に至ると武家故実化する。
この着用方法の変化と、細かな部分について観ていきたい。
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5-1.烏帽子の用い方(兜着用の時)
兜を被る身分の者は、その下にライナーヘルメット代わりに柔らかな烏帽子を被る事は既に述べた。鎌倉時代の末期頃から兜の内側に受張を取り付ける構造が現れて来るが、それ以前は兜と頭の間に緩衝材になる物が無かった。それ故に、烏帽子がこの役目を果たしていた。
更には、烏帽子で包んだ髻を「頂辺の穴(兜頭頂部に空いた穴)」に通す事で、兜の揺らぎを防いでいた。
鎌倉時代の中頃に成ると、その着用方法に変化が見える。
先ず「頂辺の穴」から烏帽子に包んだ髻を出す被り方は改められる。その結果か、或いは原因かはともかくとして、「頂辺の穴」が小さくなる(この穴は防御上の弱点であった)。
伊勢貞丈の『軍用記』によれば、「頂辺の穴」から髻を出さなくなった後の烏帽子は、後に折り、余った先端部を織り込めるようにして頭に撫で付ける様に着用した。兜を脱ぐ際は、これを引き立てて格好を付けた様である。
着用方法が変化した後の烏帽子の下、髪形に付いてであるが良く分からない。少なくとも通常の髻は結べないだろう。何故なら髻を結んでいては、兜着用に邪魔に成るからである。よって乱髪にして烏帽子を被るという、烏帽子の着用としては異様な被り方が流行り始め、室町時代の頃には故実化する。(注1)
ただ「頂辺の穴」から髻を出さなくなった時代の描写である『蒙古襲来絵詞』には、乱髪ではなく、烏帽子の中に髪をたくし込んでいる姿も多く散見する。図3・5等を参照。これは恐らく、ポニーテール状にして髪を烏帽子の中に収めているのでは無いか?(注2)
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図8:乱髪にして烏帽子を着用する武士
『蒙古襲来絵詞』より
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烏帽子を被る身分の者は軍陣であろうとも、軍陣であるからこそ、烏帽子を着用した。これは兜を被らない身分の者(つまりライナーヘルメットとして烏帽子を必要としない者)であっても同様である。
烏帽子の被り方は兜を着用する際と同じであるが、人前に出て装いを正す際には、後に折れたりした烏帽子を引き立てた。
また兜着用を想定していない者で在れば、(「頂辺の穴」が小さくなった後でも)髻を結ったまま着用している可能性も大きいのではないかと推測する。
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5-3.烏帽子と鉢巻
軍陣での烏帽子について触れる際に、鉢巻に言及しないわけには行かない。
いつ頃かは良く分からないが戦陣の烏帽子着用の際に、鉢巻を用いる様に成った。これには二つの目的があり、一つは烏帽子を固定する為であり、もう一つは兜の揺るぎを押さえる為である。
烏帽子に鉢巻姿というのは定番の様であるが、実はそうでも無い。故実化したのは室町時代頃からの様で、それ以前は必須のアイテムでは無かった。
先ず烏帽子を固定する目的においてであるが、比較的軍装が忠実に描写されているとされる『蒙古襲来絵詞』を観ると、図7の水夫もそうであるが、鉢巻をしていない者も散見する。水夫はアゴ紐をしているからであるが、鉢巻をしていない者は髻を結って小結だけで留めているのかも知れない。
乱髪の者と、剃髪をしていると思われる者は、必ず鉢巻を着用している。これは髻と小結で留められないのだから当然であろう。即ち、乱髪でなければ鉢巻は必須では無いのである。
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図9:甲冑と萎烏帽子を着用する御家人。乱髪・鉢巻姿では無い事に注目。
この絵巻物の中では「頂辺の穴」から髻を出す兜着用は行われていない。
『蒙古襲来絵詞』より
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次に兜の揺るぎを押さえる目的においてである。これは鎌倉時代中期以降、前代に比べて兜の鉢が大きく成り、鉢と頭部の間に隙間が生じた。それ故に受張の発達をみるのだが、それだけでは不十分で鉢巻をする事で揺らぎを補完した(注3)。つまり前代の小さな鉢の時代や、鎌倉時代中期以降も古い型式の小さな鉢を被っている者にとって、鉢巻は必要ではない。
上記のように軍陣の烏帽子に鉢巻は必須では無かったが、乱髪姿が増え、兜の鉢が大きくなると必須のアイテムとなり、鎌倉時代後期以降に流行し、室町時代至っては故実化する様である。
ただそれ以前の時代に於ける鉢巻着用が無かったとするものでは無いし、その比率については良く分からない。少なくとも、その数はイメージよりは少なそうである。
もっともこれは兜を着用する身分の人々の話であり、それ以外の者に取っては関係無かろう。彼らにとっては鉢巻は、それ自体の機能性と、烏帽子を固定させる意味以外にはあり得ないのだろう。在れば便利なアイテムという位置づけなのだろうか。
兜を被らない身分の烏帽子と鉢巻の組み合わせに付いての流行は良く分からない。その組み合わせを散見するが、兜を着用するような高位の者に比べると、烏帽子着用自体が早く廃れてしまったのは確実な様だ。
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5-4.様々な烏帽子着用の姿
先ほども述べたが、『蒙古襲来絵詞』だけを眺めていても、様々な烏帽子着用の姿を見る事が出来る。総じて戦場故に柔らかな烏帽子であるが、乱髪・剃髪で鉢巻をした者(図8)、髪をたくし込んで鉢巻をした者(図3)、髪をたくし込んで鉢巻をしていない者(図9)、髪をたくし込んで鉢巻はせずにアゴ紐をした者(図7)。中には露頂の者までいる。
これらの姿を眺めていても、身分差による違いとは限らない様である。例外としては水夫と御家人の一人河野通有が挙げられる。露頂とアゴ紐付き烏帽子は水夫に限られるし、河野通有は露頂しているが、これは家の故実に従った特異な姿である。
この元寇の時代が軍陣装束の過渡期であったのかも知れないが、実に多彩な烏帽子着用の姿が描かれている。また河野通有の露頂姿は、各家の故実によって様々な着用スタイルが在った事を感じさせる。
また絵巻物には甲冑着用時に、立烏帽子や侍烏帽子を着用する姿が描かれている事がある。『源平盛衰記』の中で平清盛が、甲冑着用時に立烏帽子を被る描写が出てくる。これは何を現しているのであろうか。
実際にそういった姿が在ったのかも知れない。戦闘発生の恐れのない後方に在る時や、閲兵、普段の警備任務に際しては、実際にその様な着用が考えられなくもない。ただ、野営時や戦闘時に(侍烏帽子ではあるが)その様な描写があるのは、否定は出来ないが、不自然な感じを受けなくもない。
或いは記号的表現の可能性である。烏帽子は極めて身分標識的服飾であるからである。描かれた登場人物が殿上人なのか、単なる侍なのか・・・そういった記号的表現として使われる可能性も大きい(侍烏帽子誕生以前の時代をテーマとした絵巻物に、立烏帽子と侍烏帽子が並んで描かれているのが良い例である)。視覚的資料の落とし穴の可能性である。
幾ら信憑性がある資料とはいえ『蒙古襲来絵詞』に依存しすぎているきらいを自身で感じるが、この絵巻物の中の戦場・戦陣の場面で、一切侍烏帽子が被られていないというのが、非常に気になるのである。
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5-5.戦場から消えゆく烏帽子
戦場から完全に烏帽子が消えてしまう事は無かった様である。それは戦陣装束が、武家にとっての晴装束という一面が在ったからなのだろう。室町時代には乱髪・揉烏帽子・鉢巻というセットが、武家の故実として成立するが、故実と成った時点で道具としての機能性は失われていたのかも知れない。
同時に時代は「被帽の時代」から「無帽の時代」へと切り替わっており、烏帽子を被る必然性も失われていた。
戦場・戦陣の被り物としては、烏帽子に代わって鉢巻(帯状に頭に結ぶ方法・頭を包む方法)や頭巾が戦陣で使用されるようになる。特に烏帽子を略した乱髪・鉢巻のスタイルが室町時代から流行る様になり、上杉謙信の例に在る様に、武将クラスの者ですら烏帽子を被らなく成った(注4)。絵画資料の世界でも、露頂や鉢巻姿が大部分を占めるようになる。
この様に烏帽子は、戦場に於いても、(絶滅しないまでも)その姿を消してゆくのである。
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注1:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.160。
注2:『蒙古襲来絵詞』の無帽の姿の者の髪形から想像した。
注3:鈴木敬三『有職故実図典ー服装と故実ー』p.159。
注4:笹間良彦『図録・日本の合戦武具事典』p.242
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