布帛で頭部を包む



初めに

 布帛(帛は絹織物、布はそれ以外の織物)で頭部を包む方法は最も原始的な被り物であり、最も単純な構造の被り物である。ここから冠や烏帽子と言った帽子(cap)類が派生したとも言える。
 しかしその一方で現在に至るまで廃れる事が無く、単純な被り物であるが故に、多様な被り方が生み出され、多彩な故実や民俗、名称が派生している。
 その奥深い民俗に関しては別頁で触れ、ここでは通史、実際の被り方、戦場での実例などを中心に述べていく事とする。

 このテーマについてまとめる際には、名称、形状や素材で分類せず、使用方法、包み方で分類する。(注2)

 よってここでは便宜的に、下記の如く「どの部位を包むか」で三種類に分類する事にした。かなり大雑把な分類である事は承知の上である。多彩な被り方を一々記していては、キリが無いからである。御了承願いたい。

 @顔面を除く頭部(頭の鉢)を包む・巻く方法。
 A顔面を包む・覆う方法。
 B頭部全体を包む方法。

 これらを便宜上、下記の様に呼び分類する。また各々の中から重要と思われる着用方法については抜き出して考察する。


 @「抹額(まっこう)」
・「鉢巻」
・「かつら」
 A「覆面」

 B「裹頭(かとう)」
・「袈裟を用いた裹頭」


注1:ここでいう「布帛で頭部を包む方法」とは、裂(キレ)や帯、紐を使って包んだり、巻き付けたり、結び付けたりする方法を指す。よって加工を施し、既に被れる形に成っている被り物に付いては「頭巾・帽子など」の頁で言及する事とする。
 また名称は「頭巾」「帽子」と呼ばれていても、形状としては「布帛で頭部を包む方法」と呼べる被り物については、この頁のカテゴリーに含ませた。

注2:特に名称に関しては、名称が非常に多彩で、全く同じ被り方でありながら、地域や時代によって名称が様々に変化したり、逆に名称は同じなのに、全く違う被り方をする例も在る点。布帛で頭部を包む方法は「〜巻き」「〜被り」などと呼ばれる事が多いが、「帽子」「頭巾」の名称で呼ばれる事が間々あるという点。例えば「奇特頭巾」は実際は「頭巾」ではなく、布帛を用いる「裹頭」(後述)であったりする。これらを考え観て、余り重要視しない。


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@「抹額」


 布帛を頭部に巻き付ける作法は『魏志倭人伝』に見える様に、その歴史は古い。本来は頭の鉢に巻く物は全て「抹額(まっこう)」と呼んだ。これが鎌倉時代以降、「鉢巻」と呼ばれる様になる(注1)。

 この項目では、便宜上、頭の鉢に帯状に巻き付ける方法を「鉢巻」頭の鉢を包む方法を「かつら」と呼び、分類して考察したい。


注1:宮本馨太郎 『かぶりもの・きもの・はきもの』p.7





・「鉢巻」
 「鉢巻」は細く裂いたり、折り畳んで帯状にした布帛を額に巻く方法である。使われる布は手近な布帛であり、手拭いなどに使う布帛を使用したりしたが、帯状に作った専用の物も使用された。

〈目的〉
 利用の目的としては、呪術的な目的は別頁で触れるが、基本的には
 @汗留め
 A頭髪・被り物の乱れを防ぐ
 B気を引き締める
 C集団の団結を視覚的に訴える
 Dファッション
 といった目的が考えられるだろう。

〈巻き方〉
 鉢巻には巻き方で数種類に分類される。
 巻き方として先ずは「向鉢巻(むこうはちまき)」「後鉢巻(うしろはちまき)」「捻鉢巻(ねぢりはちまき)」の三種類が挙げられる。「向鉢巻」は布帛を細長く折り畳んで帯状にし、頭部の鉢に巻き、前額部で結ぶ。「後鉢巻」は後頭部で結ぶ。一方で「捻鉢巻」は折り畳まずにヨリをかけて綱状にし、頭部の鉢に巻き、前額部で端を結ばずに挟み込む。
 鉢巻の巻き方として頭部の鉢を一周して結ぶ方法(『一重鉢巻』)と、一周させた後に引き違え、もう一周させてから結ぶ方法(『二重鉢巻』。これを真結びと呼ぶ)がある。単に何重にも適当に巻き付けた姿も見受けられる。(注1)
 また『軍用記』に「ひとへ鉢巻」「半鉢巻」の名が見える。これがどの様な鉢巻なのかは分からないが、『兵具雑記』には後方で諸羂(もろわな。蝶結び)で結ぶのが「一重鉢巻」、真結びの後鉢巻にして余りを後方に垂らすのを「半鉢巻」と記述されている様である。(注2)


様々な鉢巻の結び方
左:「向鉢巻」 『芦引絵』より
中央:「後鉢巻」 『春日権現験記絵』より
右:烏帽子の上から「向鉢巻」 『春日権現験記絵』より


〈色〉
 手近な布帛を用いるのであるから様々な色や柄の物が在った。軍装に関しての故実は後述するが、軍装に使用された鉢巻の色ですら紅色や黒、茜色、浅黄、薄紅色、柿色など多彩である。とは言え、白が最も一般的だった様である。


青い布を後鉢巻にした乞食?
『一遍上人絵伝』より


〈軍用の鉢巻〉
 軍用の鉢巻の目的は烏帽子と、兜着用者は兜の揺るぎを押さえる為に成される。
 鉢巻と烏帽子・兜の関係と着用方法に関しては別頁にまとめたので、それを参照して欲しい。ここでは鉢巻自体の詳細について述べたい。

 軍用の鉢巻に関しては様々な故実が在るには在るが、これと言った定めは無い様である。
 素材に関しては、故実書に晒し布、平織り/綾織りの帛等の名が見える。と言う事は、普通の布帛であれば、何でも有り得るという事である。
 色は『源平盛衰記』の那須与一の薄紅梅色(紅梅色は赤黒い色)を初め、紅色、茜色、黒も見え、江戸期の甲冑着用指南書の『単騎要略』には浅黄、柿色の名が出てくる。ただ白が基本であり、紅色は大将が用いる色とされる事が多い(『諸書當用抄』では、黒も大将の色としているが、『軍用記』では大将以外の着用を許している)。実際、絵巻物では白以外の色は殆ど見掛けない。特殊な例としては、柔道や空手の級・段位識別用の色帯の様に、色鉢巻で識別する流派が存在するという(注3)。また近世に成ってからであるが、一揆の参加者や、それを鎮圧する農兵が揃いの鉢巻をする事がままあるが(注4)、同様に戦場での敵味方識別用として、鉢巻が使われても不思議では無いと思うがいかがであろうか。
 丈・幅は適当であるが、『単騎要略』には「長五尺ばかり」とあるから、これ位が使いやすかったのであろう。
 巻き方は先述した様に多様であり、故実書では大抵、真結びの「後鉢巻」を指導している(時代劇は時代を訪わず殆どこれ)。しかし絵巻などを観ると「向鉢巻」や、「後鉢巻」でも真結びにはしていない姿を見掛けるので、あくまでも室町期以降の、装いを正した際の上品な結び方という事であろうか。ちなみに折り畳んだ鉢巻を縫い閉じた時は、縫い目が下に来る様に巻く(『諸書當用妙』)。
 その他、特殊な物としては鎖や金属・革片を縫い付けた「鎖鉢巻」などがあり、後の「鉄鉢」(鉄板を取り付けた物)などに繋がる。

 「鉢巻」の戦場における呪術的な目的として「はちまきと烏帽子とは、実は同じもので、戦争に出る人の物忌みの標だったのである。物忌みをして、敵の持つ力を拒むのである」(注5)という論もあるが、考えすぎ、もしくは時代が下ってからの後知恵であろう。


注1:鈴木敬三 『有職故実図典ー服装と故実ー』の分類による。
注2:小佐野淳 『図説・武術事典』p.188
注3:同上
注4:武州世直し一揆などに例を見る事が出来る。
注5:折口信夫 「はちまきの話」




「かつら」
 「かつら」は「かづら」「かもじ」と言った頭部に巻き付ける物からの派生であり、「鉢巻」や「鬘(かつら。wig)」と同根の物であるが、ここでは頭の鉢を布帛で包む作法を指す。

 
左:『融通念仏縁起絵巻』より
右:『法然上人絵伝』より


〈目的〉

 @頭部の保護:まずは頭部の保護が挙げられる。寒暖や外傷から頭部を保護するという目的である。主に防寒用であった様だ。

 A頭髪の保護:もう一つは頭髪の保護であろう。ホコリなどの汚れから頭髪を保護すると同時に、結った髪が乱れるのを防ぐ効果がある。また全く逆の保護という意味で、頭髪の臭いを漏らさない、髪油で寝具を汚さないという目的も在った様である。(注1)

 B装う為:これには呪術とファッションの両面を意味するが、前者は別頁で述べる。後者は下記参照。



〈様々な「かつら」〉
 古くから見える「かつら」であるが、主に女性や僧侶などの風俗に見え、一般風俗として表に出てくるのは南北朝・室町時代以降の様であるが、多彩な広がりと流行をみせるのは、近世も江戸時代に入ってからである。一般成人男子が常時、烏帽子を着用する「被帽の時代」の終焉と関わりが在るのであろうか。とはいえ近世においても、「かつら」の類の風俗を牽引するのは女性であった。

 近世ほどでは無いにしろ、古代〜中世にかけて、様々な「かつら」が散見される。
 古代から続く「かつら」の一種としては、入道した者の被り物がある。「帽子(もうす・ぼうし)」などと呼ばれる物で、これは一枚の布帛と言うよりは袖をちぎった様な筒状の物である。これの起源は宗派によって様々であり、ここではそれを省く。基本的には天台宗から始まった物の様で、平安時代には用いられていた様である(注2)。
 基本的には防寒の目的で高位の僧侶が用いるとされるが、尼僧や入道したと思われる老女には一般的に用いられている様である。被り方は頭頂部を被う様にひっかぶる。紐を付けて額で結び留める事も在る様だが、鉢巻をしている様に見える物もある。真言宗などでは被り物にはせず、襟巻として使用する。被り方の作法は宗派によって多々あるが、これもまた略す。
 
「帽子」に「鉢巻」。
『法然上人絵伝』より
 他に名称としては「桂包(かつらつつみ)」、「綿帽子」(江戸時代になると女性の装束に成る)などが見え、「ほっかむり」は室町時代からその名が見えている(注3)。
 「桂包」は長い布帛で頭の鉢に巻き付け、額で結び留めて、余りを垂らした被り方でである。本来、桂の里の桂女(かつらめ)がしていた被り物から来た名称であるが、桂女の名称自体、桂の里に住んでいる巫女である所から来たという説と、「かつら」を着用する巫女である所から来たという説とが在る(注4)。
 「綿帽子」は室町時代に始まり、現在のように布帛を使わず、真綿を広げて作った物で、頭髪を覆うだけの物や、顔も覆う物など多彩な姿が在った様だ。本来は防寒の為に男女共に着用したり、上層の女性が結髪のホコリ除けに着用したが、後に婚礼の花嫁衣装に成った。「布帛で頭部を包む」というこの項目のテーマに沿うかどうかは微妙な被り物である。
 「ほっかむり」は布帛を頭から被り、顎下などで結び留めるもので、現在でも労働時によく見掛ける被り方である。
 
左:髻と「ほっかむり」の組み合わせ。
右:笠の下に巻いた「ほっかむり」。
共に『洛中洛外図:舟木本』より
 また「帽子」に似た被り物として、被った布帛に鉢巻をして頭巾の様に被る姿が見受けられる。「帽子」とは違い、管見する限りにおいて、それほど高位とは思えない僧侶や老女が用いている様である。

『法然上人絵伝』より
 その他、巻頭の『融通念仏縁起絵巻』『法然上人絵伝』に描かれた様に、それほど長くはない布帛で頭の鉢を簡単に包む、現代のバンダナの様な被り方は古くから在る様だ。


〈軍陣における「かつら」〉
 軍陣において「かつら」を着ける例としては、戦国大名の上杉謙信が小具足姿の際に、「桂包」をしていたと『甲陽軍艦』の中で描写されているのが有名である。
 その他の例としては、『大阪夏の陣図』など合戦絵の隅に「ほっかむり」をする姿が描かれる事があるが、総じて甲冑類を身につけていない様な雑兵や落ち武者の類である。鎧を着けた兵士が「かつら」類を着用する例としては、『雑兵物語』の中で馬に水をやる為に自分の陣笠を脱いだ馬取りが、陣笠の下に布帛を巻き付けている。剣道の面の下の手拭いと同じ様な物だろうか。また『島原の乱図』(注5)の中で、行軍中、幟(のぼり)を背負う兵士は陣笠を被らずに「桂包」をしている。馬取りも旗指物持ちも、二本差しをしていて姿は立派であるが、おそらくは士分ではなくて中間か小者クラスであろう。
 「かつら」類は日常的な被り物であるし、兜や笠と言った被り物の下に着けるには快適であるし、寒冷期には保温の為に巻く事も在るだろうから、軍陣に置いて多用されたと思われる。ただ管見に寄れば、武家故実には「かつら」の記述は無く、略式の物であったのだろう。

 
『島原の乱図』に見られる「桂巻」。


注1:小泉和子 『道具が語る生活史』p.165
    『新版絵引』p.189
注2:井筒雅風 『法衣史』p.150
注3:宮本馨太郎 『かぶりもの・きもの・はきもの』p.59
注4:折口信夫 「はちまきの話」
注5:天保八年(1837)と幕末の作品だが、軍学者の指導の元、文献・史実の調査に八年を費やして製作されており、それなりの史料性は在ると思われる。


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A「覆面」


 「覆面」は顔を隠す事から、「頭巾」や「裹頭」等と共に語られたり、「ほっかむり」等を「覆面」に含ませたりもする。ここでは顔面部のみを隠す作法を「覆面」と分類するが、どうしても多くが「抹額」「裹頭」と重なる部分があるのは否めない。

〈目的〉
 覆面をする目的には四つほど考えられる。

 @身体の保護:寒暖や茨、虫から顔面を守る為や、粉塵や寒気から気管支を守る為に、主に労働時に着用される。

 A自身の息からの対象物の保護:これは清浄を要する神饌を扱ったり、写経や神仏の供養の際に、息を吹きかけぬように鼻・口を覆う。

 B相手の視線から顔を隠す為:先ずは己の正体を隠す目的で行われ、こういった行為は犯罪と結びつき安く、度々禁令が出されている。フルフェイスヘルメットを被ってコンビニに入れないのと同じである。女性風俗の一つとして顔を隠すという事も挙げられる。日本では貴人の女性に限られるが、古くから女性は外出の際に顔を隠す作法がある。
 日本では顔面の目から下を隠す様な「覆面」として布帛を巻き付ける方法を採る事は間々あるが、布帛を用いて顔面全体(のみ)を隠す例は少ない様である。ちなみに中国には方形の布に紐を付けた面衣が存在する。市女笠の周りに垂らす「ムシの垂絹」などは、顔を隠す為の布帛でこれに当たる。
 また他の例としては高貴な子につく乳母の覆面がある。これは卑しい乳母に対して親愛の情を持たせない為であるが、この「覆面」がどういった形状の物かは不明である。

 C装う為:ここで言う「装う」とはファッションの為ではなく、呪術的な装いである。呪術的に変装をする事で、この世の者ではない異世界の者へと変身するのである。祭事に置いて鬼や天狗の仮面を被るのと同類である。己の正体を隠すという意味では、Bの目的と似た所があるが、こちらはより呪術的である。

 @やAは現在でもその姿を見る事が出来るし、我々も日常的に行っている事である。
 Bは「裹頭」や、一部の「頭巾」で行われる事も多い。
 Cに関しては「裹頭」「抹額」でも同様の意味を持つ事があり(別頁参照)、「面」が使用される事が多いであろう。



〈着用方法〉
 では実際にどの様に覆面が行われているかという事を観ていきたい。残念ながら絵画史料では詳しい所までは分かりかねるし、笠などを被っている場合は「覆面」だけしているのか、「裹頭」を施しているのか分かり難い。現在残る風俗等と合わせて推測してみたい。
 恐らく適当な大きさの布帛を三角に折るか、あるいはそのままで鼻や口を覆って後頭部で結び留めるのが一般的だろうか。また方形の裂(きれ)に紐を付けて結び留める方法も散見する。



〈戦陣での「覆面」〉
 「裹頭」「抹額」と比較して、戦場での「覆面」姿が描かれた例を余り筆者は知らない。ただ実用性から考えて、「覆面」を使用する事は往々にして在ったと考えるのが自然ではないかと思う。

 一つ「覆面」姿が描かれている例を挙げたい。図1は単なる布帛ではなく、紐が着けられている物の様である。
 下記の図は『春日権現記絵』の中に出てくる興福寺宗徒である。兜の下に目の穴を開けた一枚布の「覆面」をしている。図2は同じ場面の興福寺宗徒。布に付いた紐で布を装着している様だが、これは図1の覆面を上に引き上げた姿であろうか?袈裟による「裹頭」をしていないので(同時に袈裟で「裹頭」する僧兵も描かれている)、僧籍を持った僧兵ではなく、単なる宗徒か参加の武士なのかも知れない。図2の人物は剃髪をしているので出家者である事は間違いない。袈裟で「裹頭」をした僧兵とは、恐らく僧階や役職などの身分の違いが在るのだと思うが、詳しくは分からない。

図1


図2


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B「裹頭」


 ここでは顔面を含む頭部全体を包む作法を「裹頭」と呼び、布帛を用いた物を採り上げる。「頭巾」を用いたものに付いての詳細は、「頭巾」の頁で触れたい
 「裹頭」は一枚の布帛や、五条袈裟などで頭部全体を包む方法も取られるが、複数の布を組み合わせる方法もある。つまり「抹額」と「覆面」の複合としての「裹頭」も在るわけである。

「裹頭」姿の乞食と思われる人々。
『一遍上人絵伝』より

〈目的〉
 形状や着用方法が「抹額」と「覆面」の複合であるのと同様に、目的や機能面に於いても、それは言える。

 @頭部全体の保護:寒暖や虫や粉塵などから、髪・頭部全体・気管支を保護する為に着用され、「抹額」「覆面」では事足りない場合に用いられる様だ。例えば普段は「ほっかむり」だけで作業しているが、粉塵が飛ぶ様な作業ではマスクもすると言う風に。

 A相手の視線から頭部全体を隠す:「覆面」の項で触れたのと同様である。己の正体を隠したり、己の顔を見られるのを恥とする理由で行われる。
 しかし日本に於いては、こういった目的の為に頭部全体を隠す作法は「被衣」「笠」「頭巾」などで行われる事が多く、ただの布帛を用いる事は中世のハンセン病患者の例が在るが(注1)、他には古代の「襲(おすい)」(注2)、江戸時代の「奇特頭巾」(注3)など比較的少ない。
 東北地方に残る「ハンコタンナ」(後述)の由来として、色欲に溺れた殿様から身を守る為に娘達が着用し始めたという俗説があり(注4)、これもこの目的に入れられるかも知れない。古今東西の女性風俗にありがちな話である。

 B装い:装いには単なる趣向と、呪術的な意味合いとがある。「裹頭」については特に、呪術的な要素をはらみつつ、社会的なシンボルをも兼ねている。この問題は「裹頭」を考察する上で非常に重要なテーマとなると為、別頁で詳しく触れ、ここでは簡単に述べる。
 装いを目的とした例としては、乞食や犬神人を初めとした非人達の「裹頭」が挙げられ、非人装束などと呼ばれる身分標識に成っていた。また僧侶(僧兵とは限らない)の袈裟による「裹頭」も挙げられるだろう。
 それとは逆に、ある種の流行として南北朝期に「裹頭」が行われた節がある(注5)。また現在、東北地方に残る「ハンコタンナ」を初めとする「裹頭」は、作業着であると同時に装いの工夫も行われている。

柿色の衣を着て「裹頭」をした人々。
犬神人、もしくはハンセン病患者と推定される。
『一遍上人絵伝』より



〈着用方法〉
 日本に於ける「裹頭」の着用方法を考えてみたい。

一部式:布帛一枚を用いて「裹頭」をする方法を仮に一部式と呼ぶ事とする。
 巻き付ける布帛は手拭いやターバンといった長方形(帯状)の物か、或いは風呂敷などの正方形の物が考えられる。
 前者ならば包帯の様に端から巻き付けていく方法(a)か、布の中央部を額や頭頂部に合わせて両端を巻き付けていく方法(b)。後者ならば半分に折って三角巾とし、これで頭部全体を包みこむ方法(c)が取られたと考えられる。
 古今東西、様々な方法が行われているが、現存する日本の風俗から考えると以上の様な法式が考えられ、古画を覗くと(b)か(c)の方法が多い様に感じられる。もっとも、不鮮明な絵画史料からでは、詳しくは分からないし、二部式や頭巾である可能性も否定できない。

二部式:布帛を二枚以上用いて「裹頭」する方法を仮に二部式と呼ぶ事とする。
 この法式は「抹額」と「覆面」の複合と言える「裹頭」の仕方である。具体的には手拭いなどで「ほっかむり」をし、その上(あるいはその下)に別の布帛で「鉢巻」をしたり、鼻や口を覆って「覆面」をする(a)。もう一つの方法としては「ほっかむり」をした後に、両手幅くらいの長さの帯一本か、その半分以下の長さの物二本かを巻き付け、額と鼻・口を被う方法である(b)。
 (a)の方法は広く野良着として各地に残っている。
 一方、(b)の方法は「ハンコタンナ」「タナ」「ハナガオ」などと呼ばれ、名称や方法に差異あるが東北地方の主に女性の野良着に姿を残している。ただこの風俗の起源は江戸時代辺りまでしかさかのぼれない様である。(注6)

袈裟:これは平五条袈裟を用いた「裹頭」であり、僧侶が用いる方法である。僧兵による使用が最も有名な物であろう。これについては別項で詳しく述べる。

〈「裹頭」の歴史〉
 「裹頭」の起源に付いては不明な点が多いが、平安時代には平五条袈裟を用いた「裹頭」が僧侶によって行われていた様である。最もこれは特殊な物であった(後述)。
 一方で非人(犬神人や宿の者など)や、乞食がいつ頃からかは分からないが白い布で「裹頭」をし始めている。彼らの中にハンセン病患者が含まれていた事に起因するのかも知れない。
 鎌倉時代になると布帛や頭巾を用いた「裹頭」が僧侶の間で盛んに行われる様になり(注7)、鎌倉末から南北朝期に一般の人間に流行する。一方で「裹頭」は非人装束と呼ばれる事もあり、異形として捉えられて度々為政者からの禁令が出ている(注8)。南北朝期の婆娑羅風俗の一つとも考えられる。
 室町時代から近世に掛けても頭巾等共に「裹頭」は行われている。ただ「覆面」の目的で被られる事が多く、犯罪と結びつくとして禁令が、これまた度々出ている。一方で非人や河原者から端を発した職業の人々もまた、『職人歌合』などでは「裹頭」に笠を被った姿で描かれており、非人装束とされる物が残っていた。
 現在、日本には「裹頭」の風俗は余り無く、東北地方の野良着として「ハンコタンナ」などが女性を中心に行われている。それもまた絶滅の危機にある。



〈戦場での「裹頭」〉
 戦場での「裹頭」の筆頭は僧兵である・・・が、それ以外には乏しい。
 検断を行使する際に動員された犬神人や、その他の非人も「裹頭」をして武力を行使するが、戦場というにはいささか違う気がする。
 いわゆる「忍者」などを連想するかも知れない。物見や待ち伏せ、奇襲、或いは不正規戦を行う様な時に濃い色や柿色に染めた「裹頭」は、戦場での「裹頭」だろう。
 またハンセン病患者であった大谷義継が顔を隠し、神輿に乗って指揮を執った事は有名だが、これは「裹頭」では無く、覆面頭巾であった様だ。



注1:中世の絵巻物に見える「裹頭」姿を、以前はハンセン病患者が顔を隠している様子としていたが、最近は犬神人など非人としている事が多い。ただ、犬神人の中にはハンセン病患者が加わっていた様でもあり、判断が難しい。
注2:「被衣(かつぎ)」の原型で、布をベールの様に被った様だ。
注3:名称は頭巾であるが、布帛を巻き付けた「裹頭」で在る様だ。ただ具体的な形は諸説あるり、頭巾とする説もある。
注4:守屋磐村『覆面考料』参照。
注5:網野善彦『異形の王権』p.28など参照。
注6:守屋磐村『覆面考料』参照。東北地方の覆面(「裹頭」)風俗に関しては、この著書を参考にした。
注7:『新版絵引』p.127
注8:網野善彦『異形の王権』p.30




「袈裟を用いた裹頭」

 袈裟を用いた「裹頭」を、その被り方を中心に採り上げる。

 袈裟を用いた「裹頭」は、僧兵独特の被り物であるかの様に考えられているが、それは少々違う様である。「裹頭」に使用するのは白の「平五条袈裟」(後述)であり、これを着用する資格のある僧侶であれば誰でも行える。そして僧兵として武装する際以外にも、僉議(せんぎ)や法要の際に着用する。着用の決まり事については宗派によって様々あり、また失伝した作法も在る様で、良く分からない。ただ、外出する際は頭巾や布帛を用いて「裹頭」をしている例が多いので、袈裟を用いた時は何らかの意図が在った事は間違いないだろう。

南都興福寺僧兵の「裹頭」。
『春日権現験記絵』より

〈白平五条袈裟〉
 「裹頭」には白い「平五条袈裟」を用いる。
 袈裟とは僧侶が衣の上から身につける布を言う。そして平袈裟とは単独の色と材質を用いた袈裟の事である。
 袈裟は元々端切れの寄せ集めであった名残で、長短二枚の布を繋いだ長方形のパーツを縦に並べて構成される。このパーツが「条」であり、いくつの「条」で作られているかで「五条袈裟」「七条袈裟」などと呼ぶ。「五条袈裟」は五つの「条」で作られた袈裟である。
 通常の袈裟は発祥のインド以来、体に巻き付ける着物であったし、現在でもそうである。その中で独特の変化を遂げたのが「五条袈裟」で、巻き付けずに体の前や横に、紐や帯で吊す様になる。特に日本に於いて独自の形状と成ったのが「威儀五条」と呼ばれる物である(下図参照)。これは袈裟に「威儀」と言う紐〈帯)を付け、これを肩紐として左肩にかけて袈裟をショルダーバックの様に右脇に吊す。更に「小威儀」で左腕に引っ掛けて、袈裟の端が垂れ下がらない様にする。
 この「威儀五条」は平安時代中期には完成をみた様であり(注1)、「威儀」がもっと簡略な紐である「割切(かっせつ)五条」と呼ばれる物もある。


白平袈裟の「威儀五条」

写真では「小威儀」が離れているが、通常は結び付けて使用する。
「威儀」の左端は表地に縫い付けられているが、右端は裏地の留具に結び付けてあるので外せる。
「裹頭」として使用する時は「威儀」の結びを外して使用する様だ。

 
 この「五条袈裟」は最も簡略な袈裟の一つで、作務衣として用いられていた事もあり、法要で着用する事を目的とせず、僧侶としての身分標識として着用された様である(注2)。その着用の作法などは、宗派や時代によって多様であるから、これを略す。



〈「裹頭」の方法〉
 白い平五条を用いた「裹頭」の方法に付いては特別の規定が在るわけではない様である。能の金剛流や観世流、南都北嶺、日光山など、それぞれ「裹頭」の着用方法に故実・伝統の類が在る様だが、皆近世に入ってから出来上がった作法である(注3)。

 「裹頭」の作法として井筒雅風氏は以下の三つの例を挙げている(注4)。
@威儀を顎に掛けて、小威儀を用いて端を後頭部で結ぶ。
A威儀を額に結び付けてから袈裟を被る。
B袈裟を被った後に、威儀を鉢巻の様に額に結び留める

 また比叡山延暦寺には現代の復元品として、「裹頭」用の威儀五条があり、それは上端中央に「小威儀」と同じ形状の結留紐が付いている。この紐を用いて頭部に留め易くするというが、古式では無い様である〈注5)。


左は『春日権現験帰絵』、中央と右は『法然上人絵伝』より。
左と中央は南都興福寺、右は北嶺延暦寺の僧侶・僧兵。

 管見した限りであるが、絵画資料に見える中世の袈裟による「裹頭」の作法は、南都・北嶺問わず、おおよそ共通していると思われる。
 袈裟で被った後、「小威儀」を用いて後頭部で結ぶ。或いは顎下で結んでいた様である。前者の方法では鼻と口を被うか、引き下げて出す場合とがあるが、後者の方法では顔は隠れない。
 問題は「威儀」の始末である。確かに井筒氏の挙げたBの様な作法と推測される例も見受けられるし、能の場合はBの着用方法を用いる。しかし見受けられる数としては少ない。しかも@やAはどうであろうか。例えば上図右の絵を見てもそうだが、「威儀」を頭や顎に巻き付けている感じはしない。また他の例を観ても、それを感じる。いささか疑問である。
 そこで下図を観て欲しい。

 これは『法然上人絵伝』の北嶺延暦寺の宗徒と稚児である。この派手な水干を着用した稚児の胸元を観て欲しい。紐が垂れ下がっているのが分かるであろうか。この図の他の「裹頭」をした宗徒も同様の紐が垂れているのが描かれている。これは恐らく「威儀」である。
 「威儀五条」を着用する姿を描いた絵画を観ると、現在の物と比べると随分と「威儀」が細く描かれている事が多い(遺物や伝来品を見るに、当時の「威儀五条」も現在の物と形は変わらない)。単なるデッサンの問題かも知れないが、「裹頭」に用いた「威儀五条」の「威儀」は、現在の「割切五条」の様に細かった可能性がある。或いは「裹頭」に用いた袈裟は「威儀五条」ではなく、現在で言う所の「割切五条」で在った可能性がある。
 であるから「威儀」を解いてから頭や顎に巻き付けたりせず、そのまま垂らして着用していたのだと推測する。その方が「裹頭」をする際も、外して体に羽織る際も、遥かに楽である。



注1:井筒雅風『法衣史』p.146
注2:同上
注3:井筒雅風『袈裟史』p.122
注4:『法衣史』p.148
注5:『袈裟史』図80


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