幾つか袴の種類を挙げたい。
とはいえ細かな袴の名前を挙げてもさして意味がないように思える。なぜならば名前は違っても形状が同じであったり、ほんの些細な差異しかなかったりする物が多いし、又逆に名前は同じなのに、全く形状の違う物を指していたりする事はままある。事、民具に関しては、それが多い。
そこで大まかに形状を分類し、主だった物のみを最後に列挙してみたい。
1.形状分類
1-1.裾の長さ
1-2.裾の形状
1-3.布数
1-4.襞
1-5.腰
1-6.襠
1-7.材質と色・柄
2.主要な袴(名称分類)
2-1.礼服の袴
・表袴
・大口
・指貫(奴袴)
・狩袴/水干袴
・小袴
2-2.その他の袴
・鎧直垂の袴
・四幅袴
・タッツケ(裁付)袴/伊賀袴
・カルサン(軽杉)
・平袴
・襠高袴/野袴/馬乗袴
・踏込(ふんごみ)袴/裾細袴
・行燈袴
・山袴
1.形状分類
1-1.裾の長さ裾の長さは半袴と長袴に分けられる。
半袴は丈と同じ長さの物であり、長袴は丈より長い物である。また例外としては四幅袴の様に膝丈の長さの物もある。
1-2.裾の形状裾の処理の仕方としては切袴、括袴、長袴、その他が挙げられる。
切袴は裾を切った形状で、通常は半袴であるが、四幅袴の様に短い物も在る。現在の和服の袴は、この形状である。
括袴は半袴であったり、長袴であったりするが、裾を紐等で括った物である。指貫が代表的な物であるが、モンペ等も括袴に含まれるであろう。運動性もそこそこ在り、礼服から普段着まで幅広く使われていた。
長袴は丈より長い袴をそのままにして、裾を踏んで着用する。長裃の袴が代表的な物で、近世に近い頃より礼服として使用され始めた。
その他としてはタッツケ袴の様に裾を脚絆上にしたりした物が挙げられるが、概して近世に近く、中世も末期になってからの物の様である。武家の旅装、軍装などに使用されたり、山袴として労働着として使用されている。運動性を重視した作りだからである。
1-3.布数これは別項でも触れた。
二布:古式の山袴。
四布:表袴(うえのはかま)。大口。四幅袴(よのばかま)。多くの山袴。
六布:狩袴。水干袴。小袴。山袴。
八布:指貫(さしぬき)。指袴(さしこ)。平袴。
十布:平袴、馬乗袴など
1-4.襞襞にはつまみ襞、すぐ襞、よせ襞、二の襞開き等各種在る。
その流行に関しては別項参照。
多くの山袴や、普段着の切袴、括袴は深い襞を取っているとは思えず、つまみ襞程度であろう。
1-5.腰腰とは、腰に当たる部分と紐の総称であるが、ここでは便宜上、腰と腰紐を分けて呼ぶ事にする。
腰と腰紐に関しては何点かの差異の種類を挙げる事が出来る。生地、本数、形状、その他の構成である。
・生地
生地としては白、共裂(ともきれ)、別裂(べつきれ)が挙げられる。
白は表袴や、直垂、大紋の小袴に使われる。決まり事ではない様だが、それ以外の袴の中にも白い腰を使用している様子がある。また山袴の中にも見受けられる。
共裂の腰は、袴と同じ布を使った物で、礼服としては束帯の下着として履かれた赤大口や、指貫、素襖・肩衣の小袴に使われた。山袴、座敷袴を問わず多いタイプ。
別裂は礼服の中では見受けられない。気に懸ける必要のない場合であれば、手元にある布を利用するのは自然な行為なので、山袴などの普段着や労働着であれば有り得るだろう。
・腰紐の本数
腰紐の本数に関しては一本と二本がある。二布の場合と、前後で紐が独立していない物は一本である。通常は前後で紐が独立しているので二本である。
・腰の形状
腰の形状は腰帯形、前開き形、片開き形、横開き形(一本)、横開き形(二本)、が考えられる(あくまでも私が便宜上に付けた名前である)。
腰帯形と称したのは二布の物。前布しか無いので、自然と腰紐は一本。
前開き形は表袴がそれである。この袴は前開きなので、一本の腰紐を帯の様に後から前に回して締める。結び目を横にする物も在る様だ。
片開き形は相引が右腰部分にだけあり、一本の腰紐をそこで結ぶ。律令制以前のズボン状の袴がこれにあたる。大口の中にもこの形態の物が在るようだ。
横開き形(一本)は一本の腰紐を横で結ぶのは上記の物と同じだが、通常の袴と同じく相引が両側に在る物。大口、打袴(うちばかま。女装装束の大口)等がこれ。
横開き形(二本)は通常の袴の形状で、腰が前後に分かれている物である。
その他構成上の差異が挙げられる。
まず上刺の有無が挙げられる。これは後布の腰に縫い込まれた白い組み紐で、指貫、直垂と大紋の袴に行われる。(写真)
次に腰板の有無が挙げられる。
腰板とは後布の腰上部に取り付けられた台形の板である。現在の袴には大抵付けられているが、この腰板が発生するのは明応年間(1492〜1501年)から文亀年間(1501〜04年)の間で、比較的新しい。
この腰板が付けられるのは近世末期の素襖、肩衣、それに平袴の類だけである。
1-6.襠襠の形状としては無襠、方形、三角形、かえり襠、その他がある。
通常の袴は方形の襠で、山袴に無襠、方形、三角形の襠を観る事が出来るが、方形の襠が基本である。
かえり襠は表袴の物で、股下を後腰から前腰に渡した帯状の襠である。
その他としたのは平袴や馬乗袴など十布の袴の形状に付いてである。この場合、襠が無襠とも言えなくもない形になる。説明がやっかいだし、近世以降の物なので詳しくは触れない。
1-7.材質と色・柄袴の材質としては、服飾の材質で在れば何でも有り得る。礼服としては絹織物各種、麻、葛などであり、身分と状況に依って厳格に決定される。普段着や労働着、軍装としては、上記の生地以外として木綿、その他草木布、鹿革等がある(近代以降の化学繊維は除く)。
色・柄としては、大宝律令に於いて表に出る袴は白袴が規定されている様に、律令制に於いては、正式には白であった。山袴の中には白無地の物が多く見受けられ、腰紐に白い布を使う事が多い事例と合わせて、宮本馨太郎氏は律令制の名残ではないかと分析されている。
この後、礼服では腰に白無地が残る例もあるが、様々な色・柄(織や染)が使われ、紋までが入れらる様になる。ただし、上下で必ず共裂を使う事とした。
別裂を用いる様に成ったのは、江戸時代の繋上下(つなぎかみしも)からである。もっとも繋上下は略式の服装であるが。
ただし時代を問わず普段着・労働着は、この限りではない。
2.主要な袴(名称分類)
2-1.礼服の袴
・表袴束帯に使用される袴で、本来は白袴(しろきはかま)と呼ぶ。下に大口を履くので表袴と呼ばれた。
四布の前開きの切袴で、「かえり襠」という特殊な作りになっている。表地は白で、裏地は紅。「おめり」という裏地の紅が見える仕立てに成っている。襞(ひだ)も腰を狭めるだけで、裾まで折り目の無い「つまみ襞」である。
・緯白か霰文二重織・明徳元年(1390年)奉納(京都国立博物館へリンク)
・白地かに霰文表袴・近現代(京都国立博物館へリンク)
・大口表袴や直垂の袴などの下に履く袴。四布の切袴で、裾が括られていないので大口と呼ぶ。腰紐は一本横結びで、襞はつまみ襞である。
表袴の下に履く大口は紅色で「赤大口」と言う。
・御大口 霊元天皇所用・江戸時代(京都国立博物館へリンク)
・指貫(奴袴)八布で裾を括る長袴。
身幅があるので上から下まで襞を通している。腰には上刺がある。
表袴・大口に変わって、衣冠、直衣、狩衣等に着用された袴で、下に下袴(同型だが長めで括緒の無い袴)を履いた。
下層の者が使用していた括袴の形式を用いたので奴袴と呼ぶ。初めは白布製で、布袴(ほうご)と呼んだが、綾織物が使われるようになり指貫と呼ばれ、布製は襖袴(おうのはかま)と称された。
丈の五割増し仕立て、足首で括り潤沢に履いた。これを下括(げくくり)という。身軽に動かねばならない時には膝下で括る上括(しょうくくり)にして下袴を省き運動製を高めた。
上括 『春日権現記絵』より
この指貫を略して切袴にしたのが指袴で、近世の物である。
なお、現在使われている指貫は、括袴の形状をなしていない事に注意。
・狩袴/水干袴狩袴は略式の狩衣着用時に履き、水干袴は水干に合わせる細身の指貫。指貫と違うのは、動きやすく六布で仕立てられている部分である。
両者の差異は、水干袴には菊綴(きくとじ。布の繋ぎ目がほころばないように、縫いつけた組紐を結んだ物。後に装飾化する)が在る事である。
詳しくは別項を参照の事。
・小袴公家に於いては指貫を、武家に於いては切袴を指す。
直垂、大紋、素襖、肩衣に使用される六布の小袴について、詳しくは別項を参照の事。
2-2.その他の袴
・鎧直垂の袴直垂の小袴と基本的には同じであるが、具足が着用しやすいように短めで括袴に成っている。また菊綴も花総(はなぶさ。菊綴の紐の先をほぐして菊の花の様にした装飾)にされている事が多い。
・四幅袴四布で仕立てられた袴。通常は膝丈の半ズボン状の切袴を指す。
主に身分の低い武家奉公人(中間、小者など)や百姓(農人に非ず)に履かれている姿が目に付く様だが、武士・侍身分の者にも履かれている。ただし侍身分の者は、四幅袴を股立にして履く事は無いという(『貞丈雑記』)。
相引部分や裾などに、革の菊綴が付けられたりする高級品もある。
・タッツケ(裁付袴)/伊賀袴裾を脚絆状にした袴。
地方武士の狩猟用衣服であったのが、運動性能に優れ、恐らく具足を付けやすかった事もあるだろうが、軍装としても使用された。信長の馬揃えにも用いられた事は有名であろう。江戸時代に入ると武士の旅装としても使われたが、享保(1716〜1736)の頃には庶民の袴として労働着として使用された様である。文化・文政(1804〜1830)の頃には、特殊な職業以外では廃れたが、幕末には再び武士の服装として脚光を浴びる。
ただ、タッツケの名前は山袴の名称としても使われ、裾が脚絆状に成っていない物でもタッツケの名前で呼ばれる物もあるし、裾が脚絆状に成っていても別の名前で呼ばれる事もあり、一定しない。
・カルサン(軽杉)南蛮衣装の影響を受けた袴で、ポルトガル語のcalsaoから来た名前である。
裾に襞を取り、横布の筒状の裾継ぎを付けた南蛮風の括袴の一種。
流行のファッションとして運動性能も良く、軍装・旅装に利用され、江戸に入ってからは庶民の労働着として多用された様である。
寛政年間(1789〜1801)以後は廃れていく様だが、山袴として使われ続けている。その為、同型異称や異型同名が多い。
着用の仕方に指貫と同様に上括と下括(垂括とも)がある。上括の時は脚絆を併用し、その姿はタッツケと同じである。下括はそのまま裾を足首まで垂らして履き、ズボンやモンペを履いている様な姿である。
カルサンとタッツケの区別にかんしては二つの意見があり、非常に困惑する所である。
一方の論は、カルサンとタッツケを裾が脚絆状になった袴とし、違いはタッツケがコハゼを用いる点だとしている。和田辰雄氏、金沢康隆氏、河鰭実英氏らがこの論を唱えている。
もう一方はカルサンとタッツケを明確に区別する論である。宮本馨太郎氏らが唱えている論である。上記の記述は、こちらの論を参考にした。
・平袴享保年間(1716〜1736)に肩衣と袴を別裂で作る繋上下が現れ、やがて袴は独立し、肩衣すら消えてしまう。この独立した袴を平袴と呼んだ。
享保〜宝暦(1751〜1764)頃には、裾の長い小袖を着用する為に襠の位置が低く成った。「町人仕立て」と称して武士は着用しなかったが、天明(1781〜1789)の頃には武家の間にも広がった。また相引の位置も低い。
・襠高袴/野袴/馬乗袴三者共に平袴から派生した江戸時代の物である。
襠高袴は平袴に対して襠が高い(低くなっていない)物。座敷袴とも言い、現在和服として着装される袴である。
野袴は旅装用の袴で、裾に黒ビロードの縁を付けてある。襠が高い物と低い物が在るようだ。
馬乗袴は平袴の襠が低くなって、乗馬等に適さなくなったので作られた襠高の袴である。裾に黒ビロードの縁を付けたり、腰板の下にセミ形という薄板や紙を入れたりと、仕立て方にも色々在ったようである。
・踏込(ふんごみ)袴/裾細袴踏込は裾が細く成っている野袴である様だ。
細く作った袴は以前からあろうが、この名前が付いている物は江戸時代に入ってからの物で、武家奉公人の演習・火事場で使用され、元文年間(1736〜1741)頃から流行した。
細く作られているのは運動性の向上の様に思われるが、一方で防寒の為の工夫であったという説もある(注)。つまり細い袴を履くと、着物の裾が良く足にからまるのであるという(別項参照)。
これまた山袴の名称としても使われるので、同名異種が多い。
注)『切の工夫』 東京婦人生活研究会・編 築地書店 1942年
・行燈袴スカート状の略式袴。
近代になってからの物であろう。
・山袴座敷袴に対して、野良着などとして使用される袴の総称。
タッツケ・カルサン・モンペ・フンゴミなど様々な名称と形状が存在する。