袴の成り立ち



 裙(くん)、腰衣、腰巻といった一枚の布を腰に巻く下衣がインドを起源とする南方系衣服であるのに対して、股の割れた下衣は騎馬民族を起源とする北方系衣服であり、西に伝わった物がズボン、東に伝わった物が袴とされている。
 日本には大陸から伝わったのであろうが、上層階級には中国の王朝の模倣として伝わったのであるが、下層階級にはどの様に伝わったのかは曖昧であるようだ。そして伝播した袴は、様々な影響を受けながら改良され、現在の形状へと変化している。
 特に山袴(野良着として使用されている袴)の形状、変化の仕方は、上層階級の袴、礼式の袴とは違う様相を呈している部分が多い。また逆に上層階級の古式を残している部分も見られる。それを見ていく事で袴の成り立ちを理解する事が出来る。礼服の変化と合わせて見てみたい。
 このテーマに関して宮本馨太郎氏の山袴の研究を大いに参考にさせて頂いた。



1.布数の変化

2.襠の形状の変化

3.腰板の派生

4.襞の変化

5.最後に



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1.布数の変化
 

 現在の袴は、基本的には十枚(幅)の布を組み合わせて構成されている。しかし日本列島や台湾に残る最も原初的と言われる袴は、この布がたった二枚(幅)だけである。この布数の増加が、袴の変化の一つと見る事が出来る。

 二布の袴は前布だけで出来た物である。即ち腰ひもと、それに連結もしくは接着された左前・右前の布二枚で出来ている。流鏑馬等で履かれる行縢(むかばき)も、これの流れを汲んだ物かも知れない。長さは違うが甲冑の佩楯を連想すると分かり易いかと思う。
 二布の構造にも多種在る。左右の布が完全に分離している物、腹部を被う部分のみがくっついている物。布を足に巻き付けて脚絆の様に紐で結んだだけの物、足を突っ込む部分を筒状に縫い合わせている物など、幾つかがある。

 二布の袴から発展したと思われるのが四布の袴である。ここに至ってようやく後布が登場し、いわゆるズボンの様な形式になる。物によって後布の長さ(腰から足下に向かう長さ)に長短があり、後布が後世徐々に発達した事を推測させると宮本馨太郎氏は述べておられる。
 山袴の中では最も数が多く、一般的な形状だと考えられている。また埴輪や、正倉院に残る袴も四布の袴の様であり、表袴大口といった礼服に着用される袴も四布の形式である事を考えると、最も基本的な形状である事は間違いないであろう。

 この後、山袴は前布二枚・後布二枚の四布の物に、奥布が前身に派生し、六布の袴に発展する様である。

 対して礼服としては四布の表袴に替わって、運動性向上の為に、倍の八布の指貫が取り入れられた。その後、これまた運動性向上の為に略されて、六布の物が用いられた。
 この変化の意味する所は、時代をさかのぼるほど裁縫の技術は稚拙であり、運動性を向上させる為には潤沢に作らざるえなかったという事では無いだろうか。在る程度の運動性を維持しながら細い作りにするには、それだけ高度な裁縫技術(糸や針の性能も含む)が必要となる。四布だった表袴を、運動性向上の為に八布の指貫に作り、その後に略式の袴などを六布としたのは、裁縫技術の向上に因るものだったのかも知れない。

 これが江戸時代に入る頃に成ると、平袴では八布から八布半の物が好まれ、最終的には十布の袴が定着する。江戸時代に入って布数が増えるのは、装飾が華美に成った事も在るだろうが、流通する布幅が狭くなったから起こったのかも知れない。同じ幅の袴を作ろうとすると、装束幅(一尺半)と普通の布幅(一尺前後)では当然布数が替わるだろうからだ。(詳しくは別項参照の事)


2.襠の形状
の変化

 袴の襠とは足の開閉にゆとりを持たせる為に股の部分に付けられた布片の事である。この形状が変化している。
 表袴のかえり襠の様な帯状襠は例外として、山袴以外の袴を見ると、通常はこの部分はハコマチ等と呼ばれる方形の襠が付けられている(写真参照)。大きさは様々である。
 山袴では、この方形の襠が前後に分離し、三角形の襠が派生する。特に後襠が長大化してゆき、その下端が裾に届くほどに成る物も現存する(写真参照)。
 山袴及び平袴では布数が増えた事で、増えた布が襠の役割を担い、無襠あるいは無襠と思える様な物が派生する。とは言え、それは近世に入ってからの話であろう。

 


3.腰板の派生

 中世から近世に入る中で、最も袴の形に変化をきたしたのは腰板の派生であろう。
 当初は薄い板を、後には厚紙を布で積んだ台形の腰板を、後腰に付ける様に成ったのは明応年間(1492〜1501年)から文亀年間(1501〜04年)の武家の服装からである。これが近世の袴に受け継がれ、現代にまで続いている。
 それ以前の袴には腰板は無く、山袴に至っては現在でも殆ど見る事が出来ない。
 腰板の派生に伴って、腰幅に対して裾が広がり三角形に近い形に変化していった。また腰紐も細くなった。


4.襞の変化

 襞も袴の布数や、流行の変化で仕様が変化している様である。近世に入ってからの変化については記述が多いのだが、それ以前の襞に関しては記述が少ない。目に留まった物だけ羅列してみたい。

 表袴や大口など四布の袴は、腰をすぼめるだけで事足りるので、襞は腰を寄せる為に付けられて、裾までは入れられていなかった。これを「つまみ襞」と言う。

 次に採用された八布の指貫や、六布の狩袴、水干袴は幅が在る為、上から下まで深い襞を通す様になる。襞の取り方に付いての具体的記述が見あたらないのだが、再現の物や現行の物は、「よせ襞」(後述)の様に中央に寄せて、三つ折り位で大きく折り目を入れている様である。八布の指貫は後身も同様に襞を付けている様だ。

 襞の形状が装飾として重要になるのは直垂以降、切袴を用いるように成ってからである。以前の様な括袴では襞の折り目は裾では曖昧になってしまうが、切袴では折り目がはっきりと露呈するのであるから、非常に重要に成ってきた。
 直垂、大紋、素襖と言った六布の小袴の折り目に関しては具体的な記述は無いのだが、古風な肩衣の袴として「すぐ襞」という名前が出てくる。これは前身全体にスカートのプリーツの様に均等に襞を付けた形式である(後身は中央に寄せて一つ折り目を付けている)。

 さて江戸に入ってからは襞の種類が幾つか出てくるが、これらは平袴の襞に付いてである。参考までに羅列してみたい。
 正徳年間(1711〜1716)から宝暦年間(1751〜1764)頃には「よせ襞」が流行る。これは中央に細かく襞を寄せるやり方である。
 また同じ頃の仕様で「すて襞」というものもある様で、これは逆に相引の縫い目の所に細く取って、他の襞を捨てるというやり方らしい。(和田氏『日本服装史』p.268)
 「よせ襞」の流行の後に「二の襞開き」という仕立てが流行る。これは神田三河町の広島屋が作り出した仕様で、座った時に裾が自然に扇状に広がるのだという。今までは座る時には袴に手を入れて左右に広げて座らなければならなかったので、非常に便利だと広まったらしい。現在の袴はこの仕立てが踏襲されているという。(『江戸服飾史』p.268)

 襞の変化に付いて羅列したが、中世の百姓(一般庶民の意)や下級武士、武家奉公人といった者達の普段着、作業着、野良着、そして軍装・旅装といった時に使用される袴においては、恐らく襞はさして細かな規定が在るわけでもないだろ。また切袴、括袴であろうとも、四幅袴など布数の余り多くない山袴や、それに近い袴を着用しているであろうから、「つまみ襞」程度の襞だろうと思われる。それに普段の使用で襞の折り目は直ぐに消えてしまう物だ・・・。

5.最後に


 細かく部分別に形状の変化を羅列した事で、ポイントが見えにくくなってしまったかも知れない。 基本的な変化としては布数の増減であるし、中世と近世の大きな差は腰板の派生だろう。
 とはいえ、礼服などでは大きな変化が在ったように思えるが、中下層の人間にとっての普段着や作業着の袴に、中世を通して変化は殆ど無いと言っても良いのかも知れない。近世に入ってからは、むしろそういった場や軍装として、袴は徐々に股引に取って替わられて言っているというのが現実だろうと思う。


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