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和服の構成上、布帛の横幅というのは重要である。 大雑把に言って和服は、ロール上の布帛を適当な長さで切り、それを縦に張り合わせて作られる。こういった作りから、寸法を指定する際に、布帛を何枚分繋ぐか、という形で表記もされる。例えば、直垂の袖の長さを故実では、布帛を一枚半から二枚並列に並べた幅にしなさい、と指示している。つまり使う布帛の幅によって、服の横の寸法が変わってくる訳である。 よって、布帛の幅は服の大きさ、形状を理解する上で、重要な要素である。 しかし布帛の幅というものは、決して一様ではない。時代や地域、布帛の種類、目的別に、多種多様な幅が存在した様である。 では布帛の幅がいかなるものであったのか見ていきたい。 |
2.幅(の) |
「幅(の)」とは、布帛の横幅を指す(縦の長さは丈)。「幅2尺」と言えば、その布帛の横幅が2尺である事を表す。 また同時に、布帛を何枚分使ったかも表す。例えば「幕は6幅」と言った時、陣幕などを布帛6枚を並列に縫い繋いで作った事を表している。四幅袴は、前後左右各一枚づつ(合計四幅)の布を使ったので、その名前がある。 現在、通常の反物は、その幅が「呉服尺」もしくは「鯨尺」で一尺とされ、この幅を並幅と称している。 ・呉服尺:一尺(曲尺一尺二分=約36.4cm) ・鯨尺:一尺(曲尺一尺二分五寸=約37.9cm) この数値を見ても分かる様に、36〜38cm位という程度の目安でしかない。一般の市場に置いて、明確な統一規格が現在に置いても無いのである。 更には広幅(並幅の倍)、半幅(並幅の半分)と言った様に、いくつかの規格が混在している。 標準サイズの一般の着物は並幅で仕立てられ。それよりも大きかったり小さかったりした場合、それにあった幅の反物で仕立てられるか、並幅を裁断して、幅を減らしたり、継ぎ足したりして仕立てられる。 |
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布帛即ち織物は、並べた数本の縦糸に一筋の緯糸を交互にくぐらせて作られる。 布帛の丈(縦の長さ)は縦糸の長さで決まるが、横幅は並べられた縦糸の幅で決まる。縦糸を何本、どのくらいの感覚で並べる事が出来るのか・・・それは織機(しょっき)によって決まる。 日本の近世以前に使用された織機は多種在るが、大雑把に分類すると「原始織機」「いざり機/地機(じばた)」「高機(たかばた)の三種類である。 「高機」は大陸より渡来人により伝来した様であるが、絹織物専用として、長く特権的な職能集団(織部司、京都西陣の職人など)によって独占されて来た。木綿の普及と共に木綿用に改良され、江戸時代には全国的に広まった様だが、地方の農家に普及するのは江戸末期から明治になっての様である。(『木綿口伝』p.226〜233を参照。) 織機機能は総じて、縦糸をそろえてテンションをかけ、「綜絖(そうこう)」で偶数番目・奇数番目それぞれの縦糸を上下に分け、その間を通した緯糸を「緯打具」でキッチリと打ち込み、織りだした布帛を「布巻具」で巻き取っていく、という事である。織機の違いは、その働きをする部品が違うだけである。 布帛の幅に関係する機能は、そろえた縦糸に、どの様にテンションをかけるか・・・という事に尽きる。 最も古い形の原始織機は、一台の織機と言うよりは、部品の集合体である。ここでは束ねた縦糸を、地面に立てた棒に縛り付け、もう一方の布巻具を、織り手の腰で引っ張りテンションをかける。 バラバラな部品の集合体であった原始織機に、機台をつけ一台の織機とした物がいざり機である。ここでは縦糸を地面に立てた棒ではなく、「縦巻具」という横棒になる。しかしながら、布巻具を織り手の腰で引っ張りテンションをかける方法は変わらない。 一方で、通常我々が「機織(はたおり)」といわれて連想するのが高機(たかばた)である。いざり機は織り手が地面にいざる様に座るが、高機は腰掛け式に進化している。そして重要なのは、縦糸にテンションをかける布巻具は織機に固定され、織り手の腰で引っ張る事はしない。これは織り手の負担を減らすだけではなく、布帛の幅を決める重要な要素となった。 前述した様に、原始織機といざり機は織り手の腰で縦糸を引っ張る。具体的には、棒状の布巻具の両端にベルトをつなぎ、これを腰に通して引っ張るのである。よって通常は腰幅程度、即ち一尺(約30cm)幅程度の布しか織る事が出来ない。 一方で高機は、人力ではなく、機械式に縦糸を引っ張る。よって織り手の腰幅に囚われることなく布帛の幅を決める事が出来る。その織機の性能次第で、いくらでも幅広い布帛を織る事が出来るのである。 この様に、どういった織機を用いたか、用いる事が出来たかで、織り出す事の出来る布帛の幅は決まってくるのである。 |
いざり機(沖縄県立博物館蔵)
右図は腰掛け部分のアップ。紐で繋がれた腰板と布巻具に注目。
4.記録に見る幅の移り変わり |
時代や地域、布帛の種類、目的別に、多種多様な幅が存在したと既に述べたが、では具体的にはどうであったのか?各時代ごとに例を抜き出し、布帛の幅の様子を探ってみたい。 |
・古代1(〜古墳時代) |
縄文末時代には、既に草木布が原始織機を用いて織られていた様だ。 織機自体としては、弥生時代の唐古遺跡・登呂遺跡からの出土品が挙げられる。これらはいざり機に近い原始織機であるが、だいたい30cm位の幅の布を織れると推測されている。 『魏志倭人伝』には、日本でも3世紀頃には絹織物の制作が行われている。これらは原始的な織機で織られたのだろうが、大陸からの織物が渡来している事も確認される。 古墳時代に入ると、いざり機と思われる遺物も出土しているが、古墳時代中頃の5世紀には、帰化人による高度な大陸の技術を用いた織物生産が行われている。それには高機が用いられたのだろう。 |
・古代2(飛鳥・奈良時代〜平安時代前期) |
布幅が初めて記録に現れるのは、奈良時代である。律令制の租税として納める布(庸布・調布)の基準としてである。 律令制では大陸の制度を模倣し、租庸調の形で租税制度を施行した。その内の人頭税に当たる庸・調は労役(歳役)と特産品の上納であったが、畿内を除いて庸は代納物を納める事でまかなったので、双方とも多くが物納であった。そしてそれらの多くは繊維製品で納められる事に成っていた。 これら庸・調で納められる庸布・調布(共に布帛を含む)には、一人当たりの割当量(長さ)の他に、布帛の幅規格が決められていた。 帛(絹) 天平尺:二尺二寸(約65cm) 布(苧麻) 天平尺:二尺四寸(約71cm) これが帛は養老三年(719年)に、布は天平八年(736年)に、幅の狭い規定に改められた。 帛/布 天平尺:一尺九寸(約56cm) とはいえ、この規格が全ての統一規格という訳ではない。納める布帛は苧麻と絹の二種類の布だったわけではなく、それぞれに様々な種類、品質の布帛が存在し、それぞれ規格が定められていた。 『古事類苑』から「延喜式」に記された、上記の定形以外の規格をいくつか抜き出してみたい。 望陀布 天平尺:二尺八寸(約83cm) (上総) 広絹 天平尺:二尺五寸(約74cm) 貲布 天平尺:二尺(約59cm) (遠江・上総) 小堅貲布 天平尺:二尺(約59cm) (上総) 狭布 天平尺:一尺八寸(約53cm) (陸奥・出羽・越後) 望陀布とは上総国望陀郡から調布として納められた物で、高品質な特産品であった様だ。また貲布(さよみのぬの)は、細布などと言って区分された布よりも、更に細い糸で織られた柔らかな布であった様だ。 なお天平尺は大宝大尺と同じで、曲尺の九寸七分八厘。約29.6cm。 正倉院に残されている遺物を見るに、その裁断は貫頭衣に近い物が多く、布帛の幅に輪郭が大きく左右される構造となっていた。よって衣服のデザインにそって、その布帛の幅規格が定められたと思われる。関根真隆は『奈良朝服飾の研究』の中で、養老三年の帛幅縮小の方針について、同年に帰国した遣唐使が唐より授与された朝服を着用し参内した事に触れている(p.54)。当時の朝廷は最先端である大陸の制度や風俗を模倣する事を常としており、最新の服装に触れた朝廷が急遽制度を修正した事は大いに考えられる。なお唐制の庸調では、布帛幅は一尺八寸(約53cm)である。 ただこれらは一部の特級品であり、こういった幅の広い布帛を織る事が出来たのは、高度な織機とそれを扱う技術集団だけであり、一般の人間は代納品を納める事で、朝廷や国衙の抱える職人集団に制作を委託したものと思われる。 自給自足した百姓は30cm前後の幅狭の布を織って使用したであろうし、市場には庸調の布よりも規格の落ちる商布(たに)が出回り、朝廷や国衙がそれを買い上げていた記録も残る。現に正倉院の遺物の中にも、一尺程度の幅でも作れる裁断の衣服が存在している。 |
・中世(平安時代中期〜織豊時代) |
この時代には正倉院の奇跡に当たる様な遺物が少なく、寸法を具体的に示す資料になかなか当たれない。 中世末期から近世初頭には、装束に使う生地は一尺五寸程度の生地幅で織り上げられていた様である。平安中期の藤原時代において、装束を含めた有職故実が確立する事を考えると、この頃にはおおよその幅が確立していたと推測される。 「延喜式」の中では、伊勢神宮の神衣祭(かんみそのまつり)で神に捧げる衣である、和妙衣(にぎたへ。絹で織った衣)と荒妙衣(あらたへ。大麻?で織った衣)に使う布帛の寸法が記されている。即ち、 和妙衣24疋(一尺五寸/一尺二寸/一尺各8疋) 荒妙衣80疋(一尺六寸/一尺各40疋)。 「延喜式」は10世紀前半に編纂、施行された律令に関する施細則だが、9世紀頃の姿を故実としている面があり、こういった寸法幅の布帛が九世紀後半には公の場で用いられていたと見て良いのではないだろうか。 装束地 曲尺:一尺五寸(約45cm) 中世後期とも近世初頭とも言える戦国〜織豊時代、この時代には上層の人間が着用した絹織物の小袖が現存している。これらは歌舞伎衣装や琉球民族服にその姿をかいま見る独特な形状をしていた。こういった小袖は装束地と同様、或いは若干幅の狭い生地幅で仕立てられていた様だ。 絹小袖地 曲尺:一尺三寸〜一尺五寸(約40〜45cm) これらは高級織物の世界であり、庶民的な世界では幅の狭い布が用いられていたのは言うまでもない。 『慶長見聞集(慶長十九年/1614年頃成立か)』には、慶長年間(1596〜1615)頃の安房国では幅の狭い木綿布が用いられていた事が記されている。幅が狭い布故に、安房国の人々は皆、脇入れして(身頃の両脇に、襠の様に布を足したという事だろうか)服を縫い、着用したという。わざわざ筆者が特筆した事から、安房国の例は特殊な状況であったのだろうが、幅狭い布を用いていた例として記しておく。 |
・近世(江戸時代) |
江戸時代に入った寛永三年(1626年)十二月七日に 絹紬 曲尺:一尺四寸(約42cm) 布木綿 曲尺:一尺三寸(約39cm) と幕府によって規定され、幅が足りない物の販売は禁止される。 しかしながらこういった禁令が出される事自体、幅が足りない布帛が出回っていた事の証であり、多くの幕府令と同じく、どの程度遵守されたのか大いに疑問である。もっとも商業用としても、或いは各藩主導の産業(即ち年貢)としても、規格という物は存在する。ただそれが幕府が規定した寸法であるかは疑問であるというだけである。 享保十七年(1732)に刊行された『萬金産業袋』の中には、当時流通していた多くの布帛に関する記録が残されている。それらを『古事類苑』に掲載されている分を抜き出してみると、唐物の金巾(かねきん)は三尺〜四尺五寸と幅広く、二尺以上の幅広の絹織物も見いだせる。しかし多くの布帛は、九寸〜一尺五寸幅といった所で、一尺前後の物が大半の様である。(ここに記された尺が曲尺か、或いは鯨尺などの民間尺かは分からない事に注意) 江戸時代中期には、高級品であっても、現在の様な並幅が一般的に成りつつあったのであろう。 |
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この様に布帛の幅に付いて眺めてきたが、大きな二つの世界が在る事に気づく。即ち、高級な織物の世界と、一般的な土臭い織物の世界である。 前者は、渡来品にしろ国産品にしろ、年貢の品にしろ商品にしろ、完全に自給自足的な製品では無かった。高度な技術に裏打ちされた織物の世界で、自在にその幅を変える事も出来た。消費者のファッションに合わせて、その幅を変えていったのである。 一方で後者は、年貢や商品として流通した物も在るだろうが、多くは自給自足的な製品であった様だ。織機の限界があり、当初より一尺前後の幅でしか織る事はかなわなかった。幸いにして、消費者のファッションは、さして変わる事がなかった。 時代が下るに連れ、日本の人口は増加し、比例して生産力は向上し、輸入品は増大した。都市住民も増加し、商品としての布帛の量も飛躍的に伸びたであろう。そうした時に、高度成長時代の三種の神器の如く、高級織物の世界は一般庶民の世界にも降りてくる事に成った。逆に土臭い織物の世界も、その商品性を高め、その存在を上昇させていった。その時、接した二つの世界の象徴が、布帛の幅であった・・・と言ったら、言い過ぎであろうか。 |