刀剣の社会性と精神性


1.初めに

2.刀剣の持つパワー

 2-1.神聖視される刀剣


 2-2.王権としての刀剣

3.身分標識としての刀剣

 3-1.儀仗の刀剣(朝廷と幕府の儀仗)

 3-2.常民の刀剣

・百姓の帯刀
・太刀の佩用
・身分と帯刀(二本差)
・身分と帯刀(帯刀出来た者と出来なかった者)


4.最後に




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1.初めに

 ここでは武器としての日本刀以外の面を、中世という時代を中心に考察してみたい。

 武具の中でも刀剣を社会的にも、精神的にも特殊な物として捉えるのは、世の東西を問わない。我が国でも日本刀は武士の魂であり、日本人の魂であるとする風潮は廃れる事がない。刀剣が我が国に於いても非常に特殊で、重要なシンボルであった事は確かである。中世に於いてはそれはどうだったのか。その実相を観ていきたい。



2.刀剣の持つパワー


2-1.神聖視される刀剣

 刀剣を神聖視する思いは欧州でも強烈に観られ、英語のsword(剣)の語源はswear(誓う)から来ていると言われ、誓いを捧げる対象として剣が古くから用いられてきた(キリスト教以前の風習で、剣を十字架に見立てたわけではない)。また正邪を争う双方に剣で戦わせるという神託裁判の存在もある。(注01)

 刃物の歴史は古く、その存在は前鉄器時代にさかのぼる。おおらかに類型化すれば、石器時代の石を割って作った刃物も短刀、即ち刀剣と言えなくもない。人類の進化と生存において最も重要な道具は刃物である。
 しかしながら兵器としての刀剣は青銅器時代からの物と言っても良いと思う。そしてこの金属の刀剣こそが、人類が初めて手にした人を殺す為だけに存在する道具と言える。

 そもそも金属を扱う職人は、世の東西を問わず非常に特殊な社会性を帯びている。特に鉄は魔術的な物質で、魔よけの効果があるとされる。その鉄や非鉄金属を神聖な火を操り、石から取り出し自在に形作るのである。中世欧州では鍛冶屋が神秘性を帯びた畏怖すべき対象として観られていた例があり、まるで魔術師の様な印象さえ受ける(注02)。我が国の刀鍛冶師も神職としての面を持ち合わせているのもうなずける。
 しかし鉄器(以下非鉄金属器も含む)の中でも刀剣に対する信仰は異常な物がある。例えば同じ鉄器でありながら農耕具と刀剣では扱いが遥かに違う。
 また同じ鉄製武具の中でも、刀剣への思いは突出している。魔術的信仰心が減退した時期の武器である鉄炮を除いても、「弓馬の道」「槍一筋の主」等と言われる様に武芸を専らとする人間にとっては主要武器は他に在ったにもかかわらずである。寺社仏閣に奉納する武具としては、甲冑と並んで刀剣が多い。

 その理由として考えられる事は、前述した様に刀剣は人を殺す為だけに造られた道具だという事である。弓矢・槍・鉄砲その他は、狩猟などにも使われるが、刀剣は違う。ただ長刀などの狩猟などには使わない武器もあり、刀剣固有の特性ではない。
 さらに刀剣は鉄器部分比率が大きいという事もあるかも知れない。
 もう一点考えられる事は、それだけ刀剣が肌身に近い物であったからかもしれない。肌身に近い武器故に、身分標識としての服飾という意味も生じる。詳しくは後述するが、精神的にも、社会的にも重要視、ひいては神聖視される理由にはなるかと思う。また最後に頼れる力は、手元にある武器である。思い入れも大きくなるだろう。力の象徴と考えるの事も出来る。それ故か、心理学的に刀剣は男性器の象徴であるとされる。それも大きな理由かも知れない。


 刀剣への思いを吊り上げる理由として、より作為的な事例が挙げられる。
 室町時代に到ると刀剣の贈答が盛んに行われる様になる。また褒美として与える土地の不足からか、勲章代わりに刀剣で忠孝に報いる様になる。こうなった時に、受け取る側としては刀剣は思い入れの深い物になる(というか成らざる得ない)。一方、与える側や贈答する同士でも贈答品に価値と権威の付加、そしてその基準が必要になる。こうして刀剣鑑定の専門家が興り、ブランドとしての刀剣価値が加熱していく。(注03)
 こういった現象は刀剣に限らず、例えば茶道具などにも観られる事で、刀剣が商品としての流通市場に乗る様になったという事であり、神聖視という部分ではマイナス要因とも言える。しかし刀剣に対する思いの高まりという点では、考慮に入れておくべきだと思う。
 そもそも奉納という行為の動機としては、祈願や信仰と同時に名誉欲・自己顕示欲が挙げられる。どれが動機としても、奉納する物としては高価な物である事が望ましい。大鎧等の甲冑程ではないが、刀剣もまた高価な物である(実費にしろ、付加価値にしろ)。刀剣を奉納するのは、案外そういった理由かもしれない。

 我が国に於ける作為的な価値は別としても、世の東西を問わずに刀剣は特別視され、神聖視される事が多い。



2-2.王権としての刀剣

 刀剣は武器本来の効力だけではなく、権力、特に王権を象徴する事がある(それが服飾として身分標識にもなるが、それは後述する)。

 目を欧州に向けてみると、最も露骨なのはアーサー王伝説に登場するエクスカリバーであろう。ユーサー・ペンドラゴン王が岩に刺した剣エクスカリバーを引き抜いた者に王位が与えられるとされた物語である。誰もが引き抜けなかった剣を、息子のアーサーが難なく引き抜き王位を継承するという物語は、史実ではないし、特別古い物語ではないが、刀剣に対するイメージを雄弁に物語っている様に思う。こういったエピソードとしては、他にも騎士の叙任の際に刀剣で肩に触れる儀式が有名である。また中世ドイツのヘレフォード市では、死刑執行人の処刑刀を参審人の前に置いて裁判を行う。この処刑刀は国王の権威の象徴であり、裁判に正当性を持たせるという行為である。(注04)
 一方で我が国に於ける王権の象徴としては、三種の神器の草薙の剣が挙げられる。また他には、蝦夷征伐におもむく征夷大将軍や、遣唐使の長官は天皇から節刀を賜っている。これは天皇の王権を代行する大使としての証しである。

 この様に刀剣が権威、権力、王権を象徴する事は多い。その理由としては、前述した刀剣が神聖視される理由と同一かと思われる。即ち男性的な力の象徴であろう。

 しかしながら、特に中世以降、刀剣が王権を象徴する様な例は、我が国では少ない様に思う。確かに刀剣は精神的・社会的に重視される武具ではあるが、重視される武具や物は他にもある。唯一絶対の物ではない。
 一門の象徴としての武具としては、甲冑の方が強い様に思える(単に高価な物という事かも知れない)。杖や棒などが権力、王権を象徴・代弁するという例はあるが、刀剣が王権や権力を象徴する例を余り聴かない。家宝としての名刀は在っても、刀剣その物が何らかの社会的パワーを有するのであろうか。
 先述した節刀の制も、実は唐の制度(即ち律令制)から来ている。律令制を初めとして多くの唐風を移植したのが古代の我が国であった。その多くは我が国の実情とはかけ離れていた為に、中世に向かう中で消滅・変異を遂げていった。刀剣に対する社会性も同様のものがあったのではないだろうか。即ち我が国には本来、古代や近代以降に観られた様な、刀剣が権威を代弁したり、強烈な象徴と成る事は無かったのではないか。

 とは言え刀剣に権威や社会性が無かったとは言わない。身分標識としての刀剣は確かに存在した。しかし身分標識として使用された物品は刀剣だけでは無かったし、刀剣が示す身分標識も「帯刀=武士」という様な単純な物ではなかった。それを次に観てみたい。


注01:『中世の窓から』 阿部謹也・著 朝日新聞社 1981年 「石と鉄ー呪術的世界」参照。
注02:同上。
注03:『新版日本刀講座』第八巻p.408 参照。
注04:『蘇える中世ヨーロッパ 阿部謹也・著 日本エディタースクール出版部 1987年 p.246参照。


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3.身分標識としての刀剣

 上記で述べた様に我が国に於ける刀剣の役割は、身分標識としての服飾という位置づけが一番大きいと考えるが、いかがであろうか。この項では身分標識の基礎である儀仗の刀剣を観てから、その後一般社会の中での帯刀について観てみたい。


3-1.儀仗の刀剣
(朝廷と幕府の儀仗)

 通常の実用武器を兵仗、儀式に使用する武器を儀仗と呼ぶ。当然我が国にも兵仗の刀剣と儀仗の刀剣が存在し、儀仗の刀剣についての規定が幾つか存在する。

 儀礼に関する決まり事は集団によって様々なものが存在し、それが一族や集団のアイデンティティの形成に一役買っている。また私的な決まり事と同様に、公の決まり事も存在する。我が国で初めて体系的に定められたのは大宝律令においてであり、現存する最古の物としては養老律令である。その後、時代と共に様々な変化が生じるが、平安期藤原時代に有職故実としてまとめられた。中世以後は、この有職故実を基に様々な決まり事が定められている。
 律令や有職故実といった公の決まり事の中にも当然、刀剣の規定が存在する。公の場では、基本的には武官と中務省の官人のみが帯刀し、その他の官人は勅許を得た者だけが帯刀をする。そして時と場合、何より官位官職によって帯刀する刀剣の装具・太刀の帯・尻鞘に到るまでの規定が成されている。官人が帯刀している刀剣を観ただけで、その人物の官位や官職が分かるのである。
 また儀仗に使用する刀剣の中には兵仗と変わらない物や簡素な物も在る一方で、飾大刀や代用品の細大刀などは唐風直刀の儀仗専用刀剣で、しかも極めて高価な外装が施されていた物もある。これを佩用出来ると言う事は、官位の高さのみならず、経済力をも誇示する事が出来た。
 こういった儀仗の刀剣は佩用出来る者と出来ない者とに、優越感と劣等感を生じさせるという階級制度の装置として機能していたと思われる。

 しかし中世に入ると、律令制度の崩壊と共に有職故実も乱れてゆき、応仁の乱以後の混乱の中で、ほぼ潰えてしまう。復古運動が生じるのは豊臣政権成立以後であり、復古をみるのは江戸も17世紀末から18世紀に掛けての様である。(注01)

 武家は朝廷との公の場に際しては、己の官位官職に沿った故実に従う一方で、武家の公の場での武家故実に従った。
 武家故実は各幕府によって定められた様だが、その詳細については無知であるが故に知らない。このサイトのテーマとも外れるので、ここではそのままにしておく。(注02)
 ただ有職故実と武家故実の違いの例として、近世における例であるが、江戸幕府の例を挙げておく。この時代には有職故実に従った特別礼服と略服とがあり、一方で幕府の定めた大礼服や登城の通常服が存在した。この時に特別礼服の際には五位以上は「飾剣」、五位は「衛府太刀」(毛抜型の目貫の付いた太刀。毛抜型太刀を模した物)を佩用し、略服の際は公家は「衛府太刀」、武家は「糸巻太刀」を佩用する。この様な帯刀の規則が大礼服や通常服にも存在するが、ここでは略する。(注03)


注01:『有識故実図典ー服装と故実ー』p.9参照。
注02:『新版日本刀講座』八巻p.406で、室町幕府の武家故実『御供古実』から、「小者には打刀を、太刀は黒作太刀を佩用するべし」という内容の事が紹介されている。基本的に黒作太刀は六位以下の身分の太刀。
 鎌倉幕府の故実に関しては、私自身が資料を見つけられていないので割愛。
注03:『日本刀全集』六巻p.104参照。


3-2.常民の刀剣

 前項では、官人や武士の儀仗について述べた。しかし触れたのは、朝廷と幕府の公の場での規定についてである。私的な空間での刀剣については述べなかったし、また市井の人々(常民)の刀剣については触れなかった。
 ここでは普段の社会生活に於ける刀剣に付いて、主に武士とそれ以外の人々との対比を中心に観て行きたい。


 ・百姓の帯刀

 余り知られていない事だが、中世に於いて百姓(普通の身分の意味。=農民ではない。)の大人ならば誰もが帯刀していたし、身分制度が厳格に確立した江戸時代に於いても帯刀が禁止されていたわけではない。勿論、帯刀していたのは鉈や小刀の様な生活用品ではなく、腰刀や打刀といった武具である。
 自力救済が基本の中世では、自前の武力で身を守り、なおかつ生活共同体の戦力にならなければ一人前とは言えないのである。であるから男子は成人をすると帯刀をした。
 子供は十五歳前後に成人式を迎え、童名から大人の名前に改名し、付紐の着物を止めて帯を結ぶ様になり、生活集団の成員となる。この時に男子は、後見人となる有力者や領主、代官(荘官)等に「烏帽子親」と成ってもらい「烏帽子」を授かる(注04)。これが十五世紀の頃になると、烏帽子親が授けるのが「烏帽子」から「刀」へと変化する。成人儀式も「刀指の祝」と称し、着物の付紐を切り取って帯にし、「刀」を差す様になるのである。(注05)


 ・太刀の佩用

 帯刀が一般的に行われていたのは既に述べたが、それは「刀」の帯刀についてである。「太刀」については、もう少し慎重に捉えなければならない。
 帯刀に関する書籍に目を通すと、太刀を佩用するのは身分の高い者だけであり、身分の低い者は代わりに「腰刀」を差し、それが長大化した物が「打刀」とする論調が多い。確かに中世前期を描いた絵巻物を眺めると、日常的に太刀を佩用している人々の姿は少なく、佩用しているのは武士と思わしき人々だけである。彼らは太刀を佩用すると同時に、腰に腰刀を脇差として差している。この太刀と腰刀の組み合わせは、後の打刀二本差と密接に繋がっているとすれば、太刀の佩用という物は武士・武官と百姓を隔てる身分標識と言えるだろう。

 ただ悩むべき疑問も無い事もない。
 例えば同じ武士でも太刀を佩用している者と、していない者とがいる。これは明確に身分差と捉えて良い物であろうか。

『一遍上人絵伝』より
左二人は太刀を佩用しているが、一番右の人物は腰刀のみ。
 また鎌倉時代末期に描かれた『春日権現験記絵』や『松崎天神縁起』などを観ていると、武装集団の描写で、騎乗して大鎧を身につけ弓を持った人間は当然ながら太刀を佩用しているが、徒で兜を被らない様な輩や僧兵でも、太刀を佩用している者が描かれている。そうかと思うと太刀を佩用していない者もいたりもする。この差は一体なんなのであろうか?

『松崎天神縁起』より
右の二人は太刀を佩用していない。

『春日権現験記絵』より
鎧を着用していない者まで全て太刀を佩用している。
侍烏帽子姿から武士を表現しているのは分かる。

 打刀の普及で、より儀仗の刀剣と化して行く太刀だが、故実に現れるなど主要武具としての格式は在り、その商品価値も打刀に比して高い。時代は室町時代の物だが「峯の薬師」に奉納された打刀の殆どが数打ち物(大量生産品)だったのに対して、太刀はそうでは無かった様だ。
 やはり「太刀」の佩用は、「刀」とは格差が在った様に思える。


・身分と帯刀(二本差)

 一人前の百姓が帯刀する事が一般的であった事は既に述べたが、その帯刀の内容には身分差が存在した様である。

 太刀と腰刀の帯刀が(戦場ではともかく)日常の中では一般的では無かった事は既に述べた。恐らく武装集団の標識となっていた様である。
 この流れを汲んでいるのか、打刀の二本差が戦国時代も後半になって行われる様になる。この二本差は誰でも出来たわけではない。村に住む者でも家柄のある者に限られた様である(注05)。
 元々、二本差は武家奉公人達の身分標識であったという。武家に奉公する彼ら全員が、何時も侍として主人の傍らに居るわけではない。主人達は奉公人の人件費を減らすべく臨時雇いをするか、彼らの多くを予備役として、普段は百姓・商人・職人を兼ねて日々の生活をさせた。兼業侍である。彼ら兼業の侍達の中には、近世薩摩の城下士と郷士の様に、「常の奉公人」(常勤の侍)とは違う「下々奉公人」(半士半農の侍)として差別を受けた。百姓達とさほど変わらない生活環境の中で、彼らの武家奉公人としてのアイデンティティを示したのが二本差であった様だ。(注06)
 また仕官をしていなかったり、奉公人ではない武士も居る。地侍と呼ばれる様な人々であるが、彼らも百姓達と混ざって生活をしている。彼らもまた身分標識が必要だったのではないか。
 この様に帯刀が一般的な社会に於いても、戦国時代以降の二本差は、それなりに格式のある物であった様だ。

 しかしその一方でルイス・フロイスは『日本史』の中で、農民を初めとして全ての日本人は大刀と小刀を帯びると記している。この差は一体なんなのであろうか。二本差が武士だけとされるのは江戸幕府に成ってから、しかも天和二年(1682年)に於いてである(注07)。それ以外の身分の者は一尺八寸の脇差一本のみの帯刀を許された(注08)。という事は、それ以前は身分に関係なく二本差をしていたという事であろう。
 
 ここからは推測であるが、二本差はやはり一般的では無かったと思う。
 二本差をしていたのは武士・武家奉公人を初め、村の中では地侍衆やせいぜい名主・庄屋衆といった格式のある人々だったのだろう。『洛中洛外図・舟木本』を眺めていても、町中で二本差をしているのは武士と思わしき人々である。
 恐らく幕府の布告の対象は、仕官せず移動する浪人を対象にしたものだったのでは無いだろうか。豊臣政権では「浪人停止令」といった、戦場を狩り場とし流浪する臨時雇いの奉公人を規制する政策が採られている。これは武家家中に縛り付けられた奉公人になるか、土地に縛り付けられた農民になるかという選択をさせる政策でもある。どちらでもない中間の浮動層は、秩序在る社会では要らないのである。この政策は江戸幕府にも引き継がれていくが、天和二年の規制はこの流れの中に在ったのではないだろうか?
 やはり二本差は百姓の物では無かったのだろう。


・身分と帯刀(帯刀出来た者と出来なかった者)

 既に記した様に、一人前の百姓であれば、誰もが帯刀をした。しかし一人前ではない百姓はどうだったのであろうか。

 同じ村の同じ百姓であっても、歴然と身分の差があるのが前近代である。村の中でも評定に加われる家と加われない家があり、祭礼に加われる家と加われない家があった。本家と分家。その他諸々の家柄の差があった。
 同じ家の中でも、主人や長男、その他の家族では差があるし、奉公人や小者・下人と言った家内奴隷の様な存在もいた。

 一人前の百姓は腰に帯刀し「刀差」の階層とされた一方で、帯刀できず腰に鎌を差した「鎌差」という階層も在ったらしい(注09)。
 彼らが村の中でどの程度の身分の人々であったのかは分からないが、誰もが帯刀出来た訳では無い例である。

『一遍上人絵伝』より


注04:女子は成人(室町時代には九才)の儀式としてお歯黒を着ける様になる。この時、「烏帽子親」と同様に、後見人と成る様な女性に「鉄漿親(かねおや)」に成って貰う。こういった風俗は(烏帽子やお歯黒は廃れたが)、現在も残っている。
注05:『戦国の村を行く』p.101、150参照。
注06:『雑兵たちの戦場』p.206参照。
注07:『新版日本刀講座』八巻p.444。シーボルトの『日本交通貿易史』より。
    このページには「元和二年」と記述されているが「天和二年」の誤植と思われる。
注08:『戦国の村を行く』p.104参照。
注09:『同上』p.101参照。


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4.最後に

 中世の日本に於ける、刀剣の社会性と精神性について観てきた。
 多くの日本人は刀剣に対して並々ならぬ思いを抱いている事が多い。時には神聖で不可思議な霊力を宿すと語る人すらいる。日本刀は外国の刀剣とは違い、日本人の刀剣に対する気持ちは特別なのだ、刀剣は武士の魂、日本人の魂だ、とする意見は良く耳にする。こと、戦前戦中の日本刀について書かれた書物ではグロテスクなまでに顕著だ。

 だが果たしてそれは本当であろうか。確かに近代という時代のピリオドだけを観ると、日本人の刀剣に対する気持ちは特別だと言えるだろう。はっきり言えば近現代人としては異常である。
 しかし日本の歴史全体を見回してみると、決して日本人の刀剣に対する思いは特別だとは思わない。諸外国にも諸外国なりに刀剣に対する思いは存在するし、刀剣が王権や権威を象徴する、或いはマジカルな存在というのであれば、欧州や大陸文化の方が遥かに激しい面も多い。
 大陸の影響が少なくなった日本に刀剣が示す王権や権威は在るのだろうか。在るとすれば身分標識であろう。もっとも唯一絶対の存在とは言えないが。

 では日本刀は武士の魂であろうか。残念ながらそれも違うだろう。刀剣を帯刀するのは武士だけではないし、太刀を佩用するのも武家だけではない。では二本差はどうであろうか。確かに武士のシンボルかも知れない。しかし魂と言えるだろうか・・・もしそうだとすれば、何と寂しく空虚な魂ではないか。
 では日本刀は日本人の魂であろうか。もしそうだと断言するならば、帯刀できない人々には魂は無いのであろうか。そんな事はあるまい。


 刀剣とは何であろうか。私はペニスの様に思えてならない。
 男性的力の象徴であり、代弁者である。社会集団の中に於いては、一人前の男として認知されるシンボルであり、身につけたそれの風体で身分を象徴するのである。


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