小袖について



 通常我々が和服と呼ぶ着物が小袖である。我々は和服・着物と言えば伝統的な民族衣装の様に考えがちだが、現在ある小袖の形が現れたのも、せいぜい二百年ほど前の幕末頃であり、決して古い物ではない。その原型が形作られたのですら、室町後期から江戸初期である。
 ここでは日本の代表的な着物であり、中世と近世(更には現代)とを繋ぐ着物とも言える小袖の成り立ちについて触れてみたい。

 なお、小袖という言葉が指し示す形式は様々あるが、垂領(たりくび)で、(たもと)、(おくみ)が在る形式を「小袖」と便宜上定義する。



小袖の発生

 小袖の名称が使われ始まるのは、平安後期の公家装束の中でである。元々小袖とは大袖(令制の礼服の表衣で、袖が広く袂の無い平袖の物)に対する袖口の小さな下着を指す名称で、その形状も盤領(ばんりょう。あげくび。丸首の事)筒袖(つつそで)であり、現在の小袖とは違った。

 一方、庶民の服装も原始的な直垂(ひたたれ)である袖細が多かった様で、これは衽も無く筒袖で、小袖では無い。衽の付いた物も在ったであろうが、やはり袂が無い。
 ただ女性用として、筒袖だが船底袖の着物も着用されていた様であるし、鎌倉時代になると労働時の発汗に対処した、よりゆったりとした服装が広まる(もっともこれは、寒冷地を除いた話ではあろう)。つまり筒袖の袖もゆったりとしてきて、袂に近い物が出てくる。

 また身分の高い者が間着として着用した(あこめ)や筒袖の下着が、室町時代の頃には表着と化していく中で袖がふくらみ(時代を問わず、衣の装飾化として袖を大きくする傾向が在るようだ)、小袖形式の着物が形作られて行く様である。

 こうした小袖形式の誕生は様々な階層の服装変化によるもので、原点が一体何処にあるかというのは、なかなか難しい問題である。

 小袖形式の確立は大体、室町時代から安土桃山時代にかけてであり、表着となる事で染めや織りによる装飾が始められる。また下着、間着としての小袖も形成され、女性の小袖同士の重ね着も行われる。




中世の小袖(小袖の成立)

 小袖形式が完成を見るのは江戸時代に成ってからだが、中世末期、近世初頭の小袖の形については藤井建三氏の記述が参考になる。
「近世初頭の小袖に小さい袖口と袂が丸いことの他に際立った特徴がある。それは身幅が広く袖幅が狭いことと、衿肩あきが小さくて丈が短いことで、広い身幅で包み込むようにしてつい丈に着ていたことである。
 これらは行動の便から生じた着用法であってゆったりと身を包み、また袖を短くして行動しやすくさせたものであり、また中世期の女性が立て膝座りをして、袴を穿かない場合の着崩れをも防いでいたといえる。
 中世の絵巻物に見られる働く女性や元気に遊ぶ子供、また鎧も着けずに戦う戦士たちの衣服の身丈が短く、袖丈も短い服装なのがこれを如実に語っている。」
  『織を学ぶ』「きもの(小袖)の歴史」p.142
 その他の資料、現物への所感も合わせてまとめると、初期小袖の形態の特徴(現在の小袖との差異)は下記の様になる。
@対丈。
A身幅・衽幅が広い。
B袖は幅(袖丈の長さ)が狭く、丸みを帯び、袖口が小さい。
C襟丈が長く、縦褄(たてづま。襟の下部から裾までの間)が短い。
D襟幅が広い。
E共襟が無い。

F帯は細い。

・中世末期・近世初頭の初期小袖形式
  白茶地桐竹模様綾小袖・16世紀室町時代(東京国立博物館へリンク)
  紅白段草花短冊八橋模様縫箔・16世紀桃山時代(東京国立博物館へリンク)


 この差異について佐藤泰子氏は著書の中で
「この成因を解明するにあたり、反物一幅から衿と袖を裁つことを記した古記録があることに着眼し、遺品の各部位採寸調査報告の数値を基に、当時の裁断法を推測して裁ち合わせを試みた結果、その反物は、幅が広く(およそ四十〜四十五センチメートル)丈が短い(およそ八〜九メートル)ものであることが推定された。
 よって、上述のような小袖形態は、反物寸法および裁断法に起因するものといえるのである。」
  『日本服装史』p.114
と、結論づけている。

 布幅だが、江戸時代初期までは絹織物の布幅は曲尺一尺五寸(約45cm)装束幅である。ただ小袖用として少し狭めの布幅(約41〜42cm)が使われたという意見もある(『服装の歴史』p.196)。
 これが寛永三年(1626年)に江戸幕府により絹幅一尺四寸(約42cm)木綿幅一尺三寸(約40cm)という規定が作られる。
 また丈も通常7〜8mであったのが、寛永八年(1631年)には三丈二尺(9m前後)木綿三丈四尺(10m前後)に規定された。

 これに伴い布の裁断の方法が変わり、身幅と袖幅がほぼ同じ長さになる現在の様な身幅の狭い小袖に変化するとされている。
 が、一方で藤井氏は
 
「ただし、現存するこの期の小袖の身幅が広いのは絹製の袷仕立てに限られていて、当時の小袖についてまだ分からないことが多い。」p.142

と慎重にまとめられている。

 確かに絵巻物などに見受けられる庶民の服装は、それほどゆったりとした感じはしない。現存する庶民が自家製として用いる普段着・野良着は、自分達の体躯にフィットする幅に仕立てる事が多く、それに加えて糸の節約も兼ねて幅の狭い布を織る傾向に在る様だ(竹内淳子『草木布U』参照)。藤井氏が述べている丈や袖の短い小袖というのも、現存する幅が狭い布で出来た現代の野良着の中にも多く見受ける事が出来るので、別に中世の初期型小袖を「如実に物語っている」とは言えまい。
 また前述の布幅の規定に関しても、江戸幕府が出した規定は、あくまでも絹・木綿の反物に関してであり、草木布は含まれていない。これはどういう事であろうか?草木布の流通もあり、規定をしないという事は考えられない。中世までにおいて最も一般的だった草木布は、元々幅が狭かったのだろうか?しかし布(麻布)の装束も多い。これは一体何を意味するのであろうか。それについては課題としたい。

 こう考えてみると藤井氏の慎重な姿勢は重要であると考える。
 推論であるが、貴人・裕福層の着用した身幅の広い小袖というのは、下着の小袖が表着になる中で装束化した特殊な物ではないだろうか?
 その一方で庶民の普段着・野良着に、あるいは略儀用・戦陣用として武士にも着用されたであろう今日まで続く一般的な、袖細の流れをくむ様な、もう一つの小袖があったのだろう。
 
 上記の引用文は、この頁に加筆訂正を加える前(平成15年10月以前)のこの項の結論である。

 この後、高田倭男氏の『服装の歴史』を読む事が出来た。この中で氏は、初期小袖と言われる様な身幅の広い小袖を、(一部庶民の布小袖の流行に影響を与えたとは言え)町の富裕な人々が身につけた一般の物とは異なる小袖と断じている。
 こういった小袖の派生の理由について、装束風のシルエットを当時の人が好んだ事、前述した様な行動の便、そして当時の装束用の布幅について言及している。江戸時代に入り、身幅が広くゆったりとして堅く張りのある小袖が消え、体の自然なラインに沿った柔らかな物だけになった事については、好みが変化した事、それを可能にした絹織物の変化等により、小袖の仕立て様式と布幅が変化したのではないかと論じている。
 この身幅の狭い小袖への変化を、「元来一般的であったものに戻ったとした方がよいであろう」(同書p.217)としている。

 この様に同様の結論に至った先人が在ったという事は、喜びである。


 なお、身幅の広い小袖の様式を残している着物としては能装束が有名ある。これはあくまでも古風な舞台衣装であるから、生きた着物とは言い難い。
 一方で、袖の形状が袂の無い平袖で在る点に差異があるが、琉球の着物は身幅の広い小袖の様式を持っている。これがどういった経緯で形作られ、それが何を意味するのかは今後の課題としたいが、中世末期・近世初期の小袖を考察する際の助けとなるやも知れない。




近世の小袖(小袖の完成)

 その形状が不明瞭の中世の小袖に対し、近世に入ってからの小袖の形状の変化は比較的記録に残っている。
 余りテーマとは関係のない女性用街着の小袖が主であるが、少しまとめておく。


 先述した様に袖幅が身幅と同じ幅になるのであるが、同様に袂も長く伸びていく。室町時代には既に、若年(男女)向けに丈の長い袖(袂)の小袖が造られる様に成っていた。この若年向けの小袖は袖下が長く成った為、大袖の様に袖下に縫い残しをし脇明を作る様になった。これを慶長年間(1596〜1615年)には振袖と呼んだ。振袖は初め袖丈一尺五寸(約45cm)であったが、元禄年間(1688〜1704年)には二尺五寸(約75cm)、江戸後期には三尺(約90cm)と長大化していく。ただ富裕層はともかく、一般庶民はこの袖下が長大な大振袖を晴れ着として着用し、普段着としてはもう少し短い振袖小袖を用いた。
 男子は成人すると、女子も既婚者になると、振袖の袖を詰め、脇明を縫い閉じ、通常の全体が身頃に縫い付けられていた袖(留袖)へと着替えた。所がこの留袖も、初め九寸(約27cm)であったのが、江戸後期には初期の振袖と同じ長さの一尺五寸と長大化し、脇明が必要になり、享保(1716〜1736)年間には脇明けが一般化する。
 この脇明を八つ口/人形と呼ぶ(前者は江戸での、後者は上方での当時の名称である)。身頃側の脇明を身八つ口、袖側の脇明を降りとも呼ぶ。男物は袖の下部に縫い残しをする様に成っても、脇明をせずに縫い閉じてしまうので身八つ口や降りは無い。
 袖の形にも変化があり、前述した様に初期は曲線を描く丸袖であった。これが時代と共に丸みを帯びた角に変化し、最終的には直線的な角袖へと変化する。当初はそぎ袖などと呼ばれる、いわゆる元禄袖の様な形状であったが、江戸中期には茶碗の定規を使って袖の角に丸みを着ける程度の袖になる。江戸後期に至って角袖となった。角袖が流行る様になったのは男性は宝暦(1751〜1764)の頃、女性は安永(1772〜1781)の頃よりである。(上方では直線的な角袖を用いたが、江戸では四文銭を定規にし「銭丸」と呼ぶ丸みが若干在る角袖を用いた。)
 袖口も当初は手を出せる程度の狭さであったが、江戸中期の元文(1736〜1741)の頃、広い物へと変化した。

 対丈だった裾は徐々に長くなって行き、女物ではついに引きずるほど長い丈が一般的になる。これを室内では引きずり、屋外ではからげるか、褄を持つ、或いは端折ってしまう。現在の女物のお端折仕立てが、享保(1716〜1736)末頃、江戸中期に確立される。

 帯も江戸時代に入って急激に変化する。江戸初期までは、細い紐か組紐を巻き付けていたが、17世紀後半の元禄文化が開花するのに向かって長さ・幅共に長大化し、女性は江戸後期には胸高に結ぶ様になる。華やかな反面、不安定になった帯の為に帯留を着用する様になるのは文化年間(1804〜1818)になってからである。
 帯を結ぶ位置も変化する。元々帯は前後左右と、特に決まり無く結んでいた様である。それが何時の頃からか江戸時代になると、既婚女性は前帯、未婚女性と後家は後帯に結ぶ風習が広く行われる。これが元禄(1688〜1704)の頃、武家の女性風俗から出た後帯が、既婚・未婚問わず流行し、江戸中期頃に一般化する。帯が巨大化する中で行動に不便を生じたからとも、成人女性の眉剃りや鉄漿付け(お歯黒を塗る事)と言った作法の開始が高年齢化する風潮に沿ったとも言われる。もっとも直ぐに前帯が廃された訳ではなく、地方によっては既婚女性の礼服として長く残っていた様である。

 また掛襟(共襟)が一般的になるのも江戸時代に入ってからである。
 本来、掛襟は襟の摩耗と汚染を防ぐ為に取り付ける物で、既に江戸初期には町人の女性が襟首の汚れと痛みを防ぐ為に布を当てるという事を始めていたし、襦袢には掛襟が在った。労働着などに至っては、以前から必要に応じて取り付けたりはしていたと考えるのが自然である。とは言え、表で着用する類の物では無かった。それが文化・文政(1804〜1830)の頃、町の女性達の間で黒い掛襟を着用する事が流行し、礼服以外には用いる程になる。


 中世末期、古くから在った垂領の着物が形を成し始め、元禄文化などと言った江戸前期後半から中期に掛けての町人文化の勃興の中、大体に於いて形状を一定化させたのが小袖である。現在、我々が伝統的な着物と言って抱くイメージは、たかだか二百〜三百年程度の伝統でしか無い事が分かる。

そしてまた、古代以来の着物の形は、労働着や普段着として現在に至るまで残っているのである。これこそが民族の伝統衣装である。



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