このサイトはあくまでも再現を主要テーマとしているので、当然ながらキットについて時代考証を試みたい。その上で、設定の衣装・装備品に近づけるべく努力する。その事でより深く軍装を理解出来るし、制作に際してイメージをしっかり持って作業が出来る・・・と思う。
このキットは安土桃山時代という設定で、肩衣を着用した武士を再現している。安土桃山時代といえば中世末期と近世初期の狭間の時期であるが、肩衣も中世末期(室町時代末・戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて、武士の一般的な礼装と成った被服である。
さてこのキットは良く出来ているとは言え、いくつかの問題点も抱えている。そして補正の仕方によっては「中世末期風肩衣」にも、「近世風肩衣」にも出来るのである。
では問題点と、補正のポイントを、各部位ごとに見てゆこう。
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こちら頭部の部品。なかなか立派な髭にモミアゲ。 ・髷(まげ) 烏帽子を着用しなくなった中世後期から、髻(もとどり)は直立した棒状ではなく、折り曲げた形状の髷が一般的に成ってくる。以前の様な棒状であったり、ポニーテール状の髻も、総じて「茶筅髪」と呼ばれて存在はした。 ただこの様に頭頂部に載った房が大きい髷は、「大銀杏」「講武所風」などを筆頭に江戸後期頃には一部在ったが、それ以前は見受けられない様である。 ・髭 ヒゲは乱世には男らしさ、荒々しさの象徴として持てはやされたが、太平の様になると野蛮として忌み嫌われた。太平の世でも古風や無骨を好む武士や無頼の徒には好まれたが、寛文十年(1670)、幕府によって禁止される。 改修ポイント ・髷は小さめにする必要がある。 ・髭は、寛文十年以降の設定にしない限り、そのままで良いだろう。 |
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図01 |
肩衣は元々は「素襖(すおう)」の袖を取り払った略式の装束で、下級の武士によって着用されていたのが、やがて中級以上の武士も着用する礼服と成った物である。 登場は室町時代であったが、戦国時代には登城時などに着用される服装としては、一般的な物と成っていた様である。 生地は麻が正式とされたが、木綿や絹織物など多彩で、色も凶事に白・浅黄・黒が用いられた他は、これまた多彩で、かなり派手であった様だが、明暦の大火(1657)後はだいぶ落ち着いたという。柄は無地が多く、小紋が用いられる様に成ったのは江戸時代も中期の宝暦(1751〜1764)以降である。 ただし上下、腰(袴の紐の部分)は同じ生地・色・柄を用いる。上下が違う着方は「継裃(つぎかみしも)」と言い、かなりくだけた格好である。ただし戦国時代には、上は木綿の肩衣、下は革袴という姿で登城する事も在った様である。 肩衣・袴には家紋を付ける。戦国時代には左右前身頃・背・腰板・袴の左右合引(あいびき)の6ヶ所、江戸時代には左右前身頃・背・腰板4ヶ所である。 さて以上は塗装に関わる部分であったが、これ以下は形状についてである。 肩衣も時代によって形状に変化を生じさせている。 このキットの肩衣は、いささか肩幅が在り過ぎるが、戦国時代頃の形状をしている。ただしこの場合、前身頃の裾は普通の着物の様に打ち合わせて着込めるのだが、キットではそうなっていない(図01の矢印)。 江戸時代になり格式張ってくると、肩を広くしたり、一文字に張らせたりする様になる。江戸時代中期には凧の様だと言われる迄に肩を張らせたが、後期には反動で丸く仕立てる様に成った。更には前身頃を胸の前当たりで扇子の様に絞って、裾を細くして着込める。この際は、キットの様に裾を平行にして打ち合わせない。 (良く形が分からない人は、江戸時代が舞台の時代劇でも観て下さい。マツケンも着てますから) どの時代設定にしても、図02丸印の部分は、布が余り過ぎだと思います。こういう風には成らないと思います。 袴に付いても問題点が在ります。 まずキットには腰板が在りません。16世紀以降の設定にするならば、図02赤枠の部分に腰板が派生します。また腰(袴の紐)の結び方も今ひとつ(図01丸印)。こういう結び方をしている人もいますけどね・・・時々。 「肩衣」について詳しくはこちらを参照。 改修ポイント 1-A「中世末期風」にする場合 ・前身頃を打ち合わせる。 ・肩幅を少し狭める。 1-B「近世風」にする場合 ・前身頃の形を襞を付け、裾をすぼめる形に変える。 ・時代によって肩の幅を変える。 ・時代によって後身頃の張りや形を変える。 (前身頃が「近世風」になると、後身頃はキットの様に前には引っ張られない) 2.時代を問わず必要な部分 ・肩衣の後ろのだぶつき(図02丸印)を直す。 ・袴に腰板を付ける。 ・袴の腰の結び方を変える。 総じて肩衣の改修は時代設定通り、「中世末期風」にした方が楽だと思う。 |
図02 |
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図01 |
肩衣は日本の礼服で初めて、下着であった小袖を表にさらした衣服である。 小袖は材質は様々であるが、江戸時代には熨斗目(のしめ。糸の状態で染色した艶のある平織りの絹)や帷子(かたびら。麻や平絹の単衣)を正式とした。 色や柄は、江戸時代では白と紫は許可制となり、まず大名でもなければ白小袖は着用出来なくなった。それ以外の色は決まりが無く、柄は基本的に無地だが、熨斗目小袖は一般的に袖下部と腰部に格子縞・横縞を織りだした。とはいえ安土桃山時代の頃迄や、「継裃」を着用する時は、かなり自由で派手な小袖を身につけていた様である。 塗装に関わる部分は以上であるが、もっとも問題なのは袖の形状である。 小袖はその袖の形状から名前が付いたが、このキットの小袖の袖は「小袖」ではなく、「広袖」なのである。 図02と胴体部分図02の矢印部分を見て欲しい。この部分が開いている事が分かると思う。図01の青矢印@と赤矢印Aが縫い閉じられていない・・・これが「広袖」である。小袖ならば図01の赤矢印@部分が縫い閉じられていなければ成らない。さらに成人男性用の小袖は赤矢印Aも縫い閉じられる。ここが開いている物は「振り袖」といい未婚の男女の着物になる。 また「小袖」の袖自体の形状も時代によって違う。図01を見て欲しい。 パテなどで赤矢印部分を閉じたとしても、それは「角袖」という形状で、江戸時代中期以降の形である。 江戸時代初期の頃までは、袖が短く丸みを帯びた形状(白線)をしている。江戸時代前期は幾分か袖が伸びて、袂(たもと)も広く成り「角袖」に近づく(黄線)。 改修ポイント ・袖に袂を作る(「広袖」から「小袖」へ)。 ・時代色に合わせて袖下部を削る。 |
図02 |
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キットは足袋と草履(雪駄?)を履いた姿である。 中世・近世問わず、基本的には許しを得た者以外は、素足を正式としている。ただ江戸時代になると肩衣着用時の足袋は許された様である。 足袋は革足袋が多かったが、明暦の大火(1657)後の革相場の高騰から、木綿の足袋が一般的と成った。色や柄も様々だったが、礼服としては白足袋が用いられた様だ。 外出時は木綿足袋を汚さぬ様に、革足袋を上に履いて、建物にあがる時に脱ぐ事も在ったという。 下駄や雪駄は略儀とされたので、肩衣姿の時は、草履であろう。 |
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図01 |
図02 |
戦国時代の頃より、打刀の大小を腰に帯びる様に成った。 大小に規定はなく、かなり華やかな拵の物もあったが、江戸時代になり登城する際に用いる「番指」は地味な物に規定された。 鞘は黒色呂塗、大刀の鐺は一文字、小刀の鐺は丸くし、柄は鮫皮の上から糸巻とし、下緒は黒平組紐などと規定が在った。 このキットは「番指」を想定したデザインに成っているのだろうが、いくつか問題がある。 鞘の反り方や、下緒の結び方(矢印部分)から見て、このキットでは左手で鞘を上下逆に持っている。つまりは図02の方に栗型が無ければならないが、これが付いていない。もしかすると下緒の結び目の下に在るという想定だろうか?それにしては位置が前過ぎる。 また返角が付いていても良いだろう。 改修ポイント ・栗型を付ける。 ・下緒を正しい位置や結び方にする。 ・好みで返角を付ける。 |
以上、時代考証を試みながら改修ポイントを列記してみた。
良くできたキットではあるが、デザイナーが現物を見ながら作っていないと分かるポイントが存在し、その点を改修する必要がある。
また改修の仕方により、「中世末期風」「近世風」に作り替える事が出来るが、元々が安土桃山時代を設定にしている事から、前者への改修の方が楽そうだ。