首級を運ぶ



『賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)』


 いよいよ本題である。取った首級をどう運ぶのか?
 理想としては首を取った後には、速やかに本陣に駆けつけ一番首を狙う。一番首に成れないとしても、大将に首実検をして頂かねばなるまい。
 最も単純な方法は上の図画の様に、首級の髷を持って運ぶ方法であろう。

 とは言え、流動的な戦場に於いては直ぐに本陣に届け出られない事もある。戦場を離れて本陣に戻る余裕の無い事も多いであろう。あるいは更に欲張り、首級を求めて戦場をうろつく事もあるだろうし、むしろそれを推奨もされる(注)。
 そういった状況下では、上の図画の様に、ただ首級の髷をひっつかんでうろつくのも問題がある。槍・薙刀の先に刺す例も多く見受けられるが、これでは得物が使えなくなってしまう。

注:『考証戦国武家事典』p.315。「味方とて油断するな」の項。『武門要秘禄』より。

『小牧長久手合戦図屏風(犬山・成瀬家蔵)』


結び付ける

 一番単純な方法としては、何らかなの方法で首級を何処かに結び付ければ良い。騎馬武者ならば鞍の四方手に付け、歩兵ならば腰にぶら下げた様である。
 結びつけ方としては、腰帯に髪の毛で結びつける・紐を口に噛ませてぶら下げる。さらには、こめかみ辺りに槍等を突き刺して頭蓋骨を砕き、あけた穴に縄を通して腰からぶら下げる・・・等々、様々な方法が在った様である。
 更に数首の様な首級を大量に運ぶ場合は、荷物の様に紐でまとめて棒で背負って運ぶ姿を、絵画等で観る事が出来る。

  


袋に入れる

 特に首級を持って戦場をうろつく訳では無くとも、利便性から布に包んだり、袋に入れて運ぶのは自然な行為であろう。首級を袋に入れる姿が軍記物にも描かれいる様である(『清正記』等)。
 また奪首が横行する戦場である。中には傷付いて動けなくなった者に、代わりに本陣に届けてやると言って、手柄の首級を騙し取ろうとする輩までいたという。そんな状況で価値の高い首級を剥き出しにしてウロウロするのは物騒極まりない。袋に入れて運ぶというのは、そういった点でも意味があるかも知れない。

 江戸時代の戦闘指南書(『甲冑着用指南』『單騎要略』)には、首級を運ぶ為の専用の袋である首袋・頚袋(くびぶくろ)がでてくる。これは苧縄(麻の縄)で編んだ巾着の様な袋である。これを懐に入れておき、首を取った時に取り出して首を入れる。布袋だと血がしみてむごいので、縄の編み袋にしたという。
 この首袋がいつ頃から使われ始めたのかという事であるが、笹間良彦氏は『図録・日本合戦武具事典』(p.252)では「戦国期では聞かない物である。」「頸袋などというのは江戸時代の考案である。」とされているが、『図説・日本戦陣作法事典』(p.258)では「首袋が戦場で用いられるようになったのは、安土・桃山時代頃からである。」とも述べられている。「首袋」と「頸袋」が違う物なのか、研究の発展の成果なのかは不明である。
 ただ、個人的には刈り取った生首に穴を開けて腰からぶら下げる様な兵士と比べると、布袋だと血がしみてむごいなどという首袋の考案者は随分と柔い事をいうとは思う。


母衣に包む

 特殊な例としては母衣を着けた武者を討ち取った時は、その母衣で首級を包み礼を尽くした。これを母衣首と言う。また母衣武者は、これぞ最後と思う様な戦では必ず母衣を着用し、母衣の下部に自分の身元を証す為に姓名を書いたので、その首の証拠ともなっただろう。(注)

注:『考証戦国武家事典』p.152


『小牧長久手合戦図屏風(犬山・成瀬家蔵)』


運ばせる

 一番簡単な方法であろう。付き人に運ばせれば良いのである。何も自分で運ぶ事は無い。
 ただし付き人の助太刀・横槍は期待薄に成って行くし、付き人がいる様な人間でなければ初めから話にならない。


首以外を運ぶ

 既に記した様に鼻や耳を削いで、それを懐や袋類に入れて証拠とするという方法である。これなら手軽で、かさばらず具合が良い。
 とはいえ、あくまでも略式であろう。



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