履物下(主に足袋)について



 中世の戦場で履かれたであろう履物下について考えてみたい。
 靴下の様に、履物の下着として着用された物には幾つか在る。「襪(注1)」「足袋」「甲掛」などがそれである。

 先ず「襪」であるが、これは指の股が分かれていない足袋状の履物である。通常は絹織物で作られ、沓下として着用される。
 官人の装束の一部であり、中世の戦場とは直接関係ない為(注2)、これ以上触れない。

 「甲掛」の類は、「打掛」「草鞋掛」など様々な呼び名が在る様だが、足袋の甲の部分だけの物である。これらは布で作られ、草鞋や草履の使用に際して着用され、鼻緒・紐ずれを防ぎ、寒さや茨などから足を保護する。労働着や旅装として使用された。
 「甲掛」がいつ頃から使用されたのかは、筆者には良く分からない。防具の「甲掛」は室町時代頃より作られ初め、江戸時代に盛んに作られた様だが(注3)、履物下としての「甲掛」については、近世以降から名前を見かける事が多い。また絵画資料などでも見た事が無い。不鮮明な絵画では足袋との違いが分からない可能性もある。ただ履物下では無いとは言え、同じ形状の防具が存在したと言う事は、「甲掛」の発想は少なくとも在ったのだろう。
 筆者にとって、まだ調査の必要がある為、ここではこれ以上触れない。



 注1:「しとうず」。元々は「したぐつ」だった。これを示す漢字は幾つか在るが、一般的な「襪」を当てた。江馬務「足袋の沿革」参照。
 注2:沓下なので物射沓・馬上沓の下には履かれる可能性はあるが、中世ではこれらは儀礼的にしか履かれない。また貫なども沓であり、着用される可能性があるが、貫下として履かれるという故実が見あたらない為に、やはり除外するとした。
 注3:「甲掛」にカルタ金や鎖を縫い閉じた防具で、足袋の上に付けてから草鞋を履いた。笹間良彦『図説・日本武道事典』参照。


足袋について


足袋の派生

 「たび」の名称の初見は、平安時代の『倭名鈔』で本来「単皮」と書かれた。ただしこの「単皮」が指し示す履物は鹿革の半靴の事で、今で言う「足袋」とは違う。(注1)

 「足袋」の派生には幾つかの論が在る様だが、前述した沓下の「襪」から派生した物の様である。沓であれば必要のない指の股を新設した事から、この「足袋」が鼻緒式履物と密接な関係が在る事は論を挟まない。よってその派生時期は、草鞋や草履が藁沓などから派生する平安時代後期前後では無いだろうか。少なくとも軍装品として履かれる様に成るのは、草鞋や足半が戦場で履かれる様になった鎌倉時代以降と思われる。


 

中世足袋の形状
 中世における「足袋」は総じて革で作られた。
 形状としては、現在の物よりも足首部分が長く、スリットは足首前部に入り、二本の締紐が付けられている(現在の物は後部にスリットが入り、コハゼで留める)。



足袋の着用
 「襪」は公家(一部、官人・僧侶など)の物であったが、「足袋」を着用していたのは武家である。

 本来、武家は平時において、公式の場では常に裸足である。官位に従って装束を身につける際に「襪」を履く事は在っても、基本的には履物を履く事は無い。よって通常は「足袋」を身につける事はなく、足の保温が必要な者(高齢者、病人)に限って「足袋御免」と称して許可が下りた。また着用に当たっても、色や柄に様々な作法・故実が存在していた。

 「足袋」の色や柄は無紋・有紋、黄色革・黒革・白革・紫革など様々な物が有った様だが、武士は総じて薫革(ふすべがわ。煙で燻した革)が後々まで多かった様で、『宗五大草紙』(1528年刊行)には「出陣之時はふすべ皮たるべし」とある。



近世以降の足袋
 中世末期・近世初期の織豊時代を迎えると、「布足袋」が現れ、「足袋」を履く習慣も武家以外に広がってゆく。また武家においても、屋内は勿論、公の場でも「足袋」を履く事が当たり前の様に成って行く。

 太平の世を迎えると「足袋」の形状も変化を遂げる。留具が締紐一本式・ボタン式・コハゼ式が現れ、スリットが後部に移り、足首部分が短くなり、色も白か紺に限られる様になり、現在我々が「足袋」と効いて連想する形状に成るのである。(注2)
 特筆すべき「足袋」の大変化は、「革足袋」が姿を消す事である。これは鎖国による輸入の停滞や、明暦の大火(1657)以後、競って人々が火事羽織・火事頭巾を作った事により、皮革(特に鹿革)が枯渇し高騰した事による。またこの時期、木綿の普及が進み、「足袋」の素材に取って代わった。こうして中世以来の「革足袋」は姿を消すのである。



 注1:「単皮」の字を使わなくとも、「くまの皮のもみたび」と言った様に貫・毛沓の類を指す場合がある。詳しくは別頁参照。
 注2:時代によって様々な流行の変化があるが、主題とずれる為、ここでは多く触れない。


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