皮沓は動物性皮革で作られた被甲履物類(即ち沓式)を言う。この種の履物には貫・毛沓・ケリ(アイヌ人の靴)・馬上沓・物射沓など、様々な名称と形状の沓が含まれ、使われる皮革も毛皮からなめし革、魚の革まで多岐に渡る。そしてその中には軍用の履物も少なくない。 ここでは皮沓の履物を分類し、さらに具体的な着用例や方法を見ながら、民具と軍装品としての歴史に付いて触れたい。 尚、革足袋の類は別種の履物として、ここでは触れない。別頁参照の事。 「クツ」を表す漢字には「沓」(クツの総称)、「靴」(なめし革のクツ)、「履」(短クツ)、鞋(皮革以外のクツ)が在り、それぞれの意味に照らして使用した。ただ「靴」の字に関しては、なめし革だけではなく毛皮なども含めた皮革製沓の総称として使用した。 |
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・形状分類 |
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①皮履(かわぐつ)型式 |
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②綱貫(つなぬき)型式 |
短靴で、一枚の皮の周辺部に幾つか穴をうがち、紐を通して巾着の様に絞って履く型式である。 |
(①+②複合型式) |
表には無いが、皮履型式と綱貫型式との複合と呼べる型式も存在する。形状としては、一枚の皮の周辺部に穴を開けて、紐を通して巾着状に紐を絞って履くのであるが、踵部分など一部を縫合しておく型式。 |
③長靴型式 |
この型式は足首周りを被う立挙(たてあげ)の在る皮沓を指す事とする。 |
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(スパイク付型式) |
皮沓の中には靴底にスパイクが施されている物が存在する。物射沓などには滑り止めとして、靴底に漆を塗って砂をまぶしている物もあるが、この分類には含まない。 |
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鼻高履(はなだかぐつ)/浅沓 |
大宝律令以来の礼服用。 スリッパ状の沓で、素材も様々。革製の物もある。後に木靴化し、現在は草鞋(そうかい)の名で、寺院儀礼に使用されている。 ここでは沓の古典として名を出したが本題とは関係ないので深くは触れない。 |
靴(かのくつ) |
大宝律令以来の武官五位以上の礼服用。 漆塗りの牛革長靴。足首に革帯と留具が付く。官職によって烏皮(くりかわ。黒漆塗りの牛革)か、赤皮を用いるなど区別があった様だ。 平安時代に入ると立挙に前開きの開口部が出来、靴氈(かせん)と呼ぶ錦の飾りで被われ、靴氈の下縁に水引を巡らせる様になる。靴氈は年齢や官職などによって色が変化する様だが、ここでは本題とは関係ないので触れない。 この靴が皮沓系長靴型式の原型となる。 |
半靴(ほうか) |
乗馬用の簡略化された靴(かのくつ)。主に直衣・衣冠・狩衣姿で騎乗する際に履く。 靴よりは寸法が短く、革帯・留具・水引を付けず、靴氈を深くかけた。 |
馬上沓/物射沓 |
半靴より機能的で形式張らない乗馬用の靴(かのくつ)。旅装等として履かれ、武家は流鏑馬・笠懸などにも使用した。 革帯・留具・水引は勿論略し、立挙に靴氈を深く掛けるのは半靴と同様。靴氈は錦の他に染韋が使われ、馬に当たる部分に藺(燈心草。いぐさ)を用いている(注2)。沓本体部分は韋(なめしがわ)で爪先に12の襞を寄せているが、毛皮の物もある。また〆紐が付いているなど、幾つかの型式が在った様である。 |
深沓 |
靴(かのくつ)から変化した物の一つで、平安時代より見受けられる。 雨天や雪中で履かれる物で、正に長靴。立挙は高く膝下辺りまで在った様で、素材は皮革に限らず藁などがあった(現在の雪沓と同じ物か?)。黒革の物は立拳の上縁に無紋紫皮を付け、検非違使らは青革の縁を付ける。靴氈は略した。 |
毛沓 |
毛皮で作られた履物。 本来は貫と同義だが、後には靴(かのくつ)もしくは馬上沓と混同して、立拳のある毛皮製長靴型式の物を毛沓と称して作る様に成った(注3)。江戸時代の復古調毛沓は殆どがこれ。 |
貫 |
綱貫型式の履物。いわゆるキンチャクグツであるが、皮履型式の毛沓も含めて指す。 公家や検非違使・衛府といった武官、武士達によって、乗馬用の沓として履かれる姿が平安時代末期から見られる様になる。 使用した毛皮の種類は熊、あるいは牛であった(毛沓の名称では虎などの例もあり、アザラシやカワウソの毛皮の例もある)。また漆塗革も使われた様である(下の『蒙古襲来絵詞』参照)。 高級な物の中には、口の部分に白銀の覆輪を施した物もある。通常は布か何かで縁取りを施している様である。 沓紐は足首で結んでいたが、室町時代頃からは下の図の様に、足の裏を通して足の甲で結ぶ様になる。伊勢貞丈の考察として、足裏に巡らした沓紐を保護する為の革板が沓底に貼られる様になり、沓底と革板との間を、沓紐が「貫く」ので「つらぬき」の名称が生じたとの説がある(注4)。 また江戸時代には、貫(綱貫)は関西の町人・百姓の防寒靴としても使用され、中には滑り止めのスパイクが付く物もあった。これらは乗馬用の沓でも、儀礼的な沓でもなく、徒立ちの労働靴である。 |
朝鮮沓 |
江戸時代にその名が見えるスパイク付の半沓。 これも関西の官吏・賤夫が履いたという。(注5) |
ケリ |
東北地方やアイヌ民族の中で使われた沓を指し示す言葉。 |
注1:宮本馨太郎『かぶりもの・きもの・はきもの』p.207参照。宮本氏の分類方法を、そのまま利用した訳ではない。 注2:馬上沓の形状については様々な物があり、様々な故実がある。藺の筵編の取り付け部分に関しても同様で、伊勢貞丈は『貞丈雑記』に於いて馬に当たる内側の靴氈全体に貼る様に記しているが、『信貴山縁起絵巻』等に描かれるそれは踵からアキレス腱に当たる部分に貼られている(下図を参照)。 注3:江馬務氏は室町時代から行われ始めたと論ずるが(『江馬務著作集』第四巻p.457参照)、笹間良彦氏は江戸時代から始まったとされる(『図録・日本の合戦武具事典』参照)。 注4:けだし至言であると言う意見も多いが、異論もある。私も無理があると思う。 注5:潮田鉄雄『はきもの』p.48参照。 主要参考文献としては江馬務「履物史」(『江馬務著作集』第四巻収録)を利用した。 |
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ここでは軍用として戦場で履かれた皮沓類について、その使用状況の推移を見ていきたい。前頁と被る部分もあるが御容赦願いたい。 |
~古代 |
戦場の履物として皮沓が姿を現すのは、乗馬用ブーツとしてである。平安時代には半靴(ほうか)や馬上靴と思われる物が使用されている様である。 徒立時の履物として沓型式の物は、武官の藁深沓の物が見受けられる程度で、多くは裸足の様である。 |
中世前期(平安時代末期~鎌倉時代) |
中世期に入った平安時代末期には、乗馬用シューズとして貫・毛沓といった短靴系の皮沓が、戦場に姿を現す。 貫・毛沓らの短靴系の登場と引き変わり、半靴・馬上沓といった長靴系の皮沓は戦陣から姿を消す。これらは流鏑馬・笠懸といった場での儀礼的な履物や、旅装として使用される。 貫・毛沓は主に武家の装束とされているが、公家や検非違使らにも騎乗時に着用された。 |
中世中期(鎌倉時代後期) |
鎌倉時代後期、中世も後期を迎えようとする中で、貫・毛沓は徐々に戦場から姿を消し、変わって草鞋や足半といった下位の者達に履かれていた鼻緒式の履物が取って変わる様になる。この時代の『蒙古襲来絵詞』を散見すると、既に騎乗し大鎧を着用する武士達の中にも、沓を履いていない者が見受けられる。 (ちなみ文永の役を描いた上巻では、騎乗し大鎧を着用する武士の中にも革足袋に草鞋を履いた姿を見る事が出来るが、弘安の役を描いた下巻では、大鎧を着用した武士の草鞋の着用比率が下がっている様に思う。絵師の都合という可能性も在るので、うがち過ぎかも知れない) 貫・毛沓は、毛皮を用いた物(左下)と革を用いた物(右下)とが見受けられる。 |
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中世後期(南北朝~) |
中世後期の始まりとされる南北朝から室町時代に到ると、戦場から貫・毛沓は姿を消してしまう。武家一門の棟梁であっても騎乗時に鼻緒型式の履物を履くようにまで成っている。 毛沓・貫といった履物は長靴型式の沓と同様に、将軍の出行・祭礼の際の随兵の履物といった儀礼的な物に成ってしまう。 |
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皮沓は貴人の礼服用履物、或いは武士の戦装束、特に乗馬用ブーツ/シューズとしてのイメージが強い。確かに馬上沓などの乗馬用靴は在るものの、これは偏ったイメージである。 先ず、皮沓は古くから凡下の人間に履かれていた様である。 例えば平安時代の『倭名鈔』に、庶民が履く単皮(たび)と呼ぶ一枚皮の鹿革半靴の記述があり、恐らくこれは貫・毛沓の類で在る様に思われる。また毛沓は、山間部で防寒履物として最近まで使用されていた。既に前述したが、貫・綱貫と呼ばれるキンチャクグツが、江戸時代に百姓・町人の寒冷機の作業靴として着用されていた。軍用と比べると単純な造りで、毛皮も鹿・豚(猪)・猿などの身近な得物を使用した様である。 この様に決して、皮沓は貴人や武士だけの物ではない。 また江戸時代の関西においてスパイクの付いた貫や、朝鮮靴と呼ばれる半靴の記録が残っている(朝鮮靴の名前の由来に成っているのだろうが、朝鮮半島は無論、中国大陸において、スパイク付の皮沓が広く存在した)。スパイクの目的は積雪やぬかるみで滑らない事にある。 これらの事は、本来、皮沓は騎乗用の履物ではなく、積雪のある場所や雨天でぬかるんだ場所で、寒気から徒立ちの足を保護する目的としての意味合いが強い事を示している。 浅沓や靴(かのくつ)、またそこから派生した沓は、殿上人が大陸から直輸入した風俗である。しかしながら、それとは別に古くから日本に在った、或いは伝わった民間の沓の流れが存在した。 恐らくそれは貫・毛沓がそれに当たると考える。古の時代、武士も凡下であり、殿上人の沓とは違う機能的な履物として、これらを履いていたのだろう。それが武士の台頭と共に表舞台に現れる事で、また貴人らがその風俗を取り入れる事で、有職故実的な貫・毛靴が生まれたと考えられる。 やがて鼻緒式の草鞋などが登場する事により、武士が実用の履物として貫・毛沓といった皮沓を捨てた時、なお実用の履物として一般庶民に履かれ続けたのは、元々彼らの労働靴だったからである。 皮沓は、雪や水・寒気から労働者を保護する、徒立ちの為の冬期作業靴だったのである。 追記1 ケリの名で呼ばれるアイヌ民族の靴に関しては含まなかった。ケリを考慮に入れると、考察の地域的範囲が列島を越える恐れがあるし、あくまでも貫・毛沓を主題としたかったからである。 追記2 古くから凡下に履かれた皮沓があるのだから、騎乗できる貴人以外にも履かれる様子が出てきても良さそうなものだが、その様子はない。 凡下といっても官位のない者は全て凡下であるし、履ける身分や階層が共同体の中で決まっていたかも知れない。また冬期の合戦を描いた『後三年合戦絵詞』を見ると、それなりの武士ですら裸足の姿でいた様に描かれている(実際の所は分からないが)。下級の者が履物を履いた姿というのは、なおの事、珍しかったのかも知れない。 ただ単に藁製品よりは高級品で、江戸時代ですら贅沢品という意識が在る様で(注1)、狩猟の盛んな地域以外では、なかなか手に入りにくい品物であった可能性もある。 注1:西宮市立郷土資料館内 井阪康二「農作業にはく革くつ(綱貫)」参照。 |