股引



 股引(ももひき)は「ももはばき」から転じた名称で、股をも被う脛巾(はばき)という意味から派生したらしい(注1)。
 股引がその姿を現すのは室町時代の絵巻物『慕帰絵』からと言われていう様で、股引の描写は『慕帰絵』第七巻に登場する。『慕帰絵』自体は観応二年(1351)に作られているが、一巻と七巻は室町幕府に貸し出されていた間に紛失され、文明十四年(1482)に補写された物であり、明らかに他の巻と比べると新しい風俗が描かれている。
 十五世紀末に描かれている絵巻に姿を現すという事は、股引の登場自体はそれよりも幾ばくか古いのだろうが、十五世紀後半に姿を現した物と考えても良さそうである。


『慕帰絵』より

 股引と袴との間には、作りや着用法に共通点は見受けられ、袴の一種と考える事も出来る。モンペが股引から派生した言葉で在る事から(注2)、相互に影響し合って来た部分も在ると考えられている。しかしながら、それにしては随分と異型である。
 そもそも股引は、(たふさぎ。フンドシではなく肌着の「下袴」の事)が室町時代にその名と姿を変えて、表着になっていった物の様である。
 着用方法にその正確が現れている。例えば、袴は上衣の裾をたくし込んで着用する事が多いが、股引では決してその様な着用はしない。上衣、着物の下に着用する。さらに江戸時代には野袴の下に股引を着用する事も在ったという(注3)。「半股引」(いわゆる猿股)と呼ばれるような太股までの物を、着物の下に着用した事例もある。何よりも上記の図を見て欲しい、この図では股引を四幅袴の下に着用している事にお気づきであろうか?

 股引は下衣の中では特別細身の作りになっており、こういった体に密着したデザインの服飾が作られたのは、縫製技術が強靱になったから故であろう。構成も複雑に出来ており、専門職に依頼する様な服であった様である。そう考えると、股引が中世も末になってから派生した物である事には納得がいく。


注1:和田氏『日本服装史』p.321
注2:『かぶりもの・きもの・はきもの』p.126
注3:和田氏『日本服装史』p.303。p.321。



参考:江戸時代の変化

 股引が一般的に流布したのは江戸時代であり、江戸では宝暦年間(1751〜1761)頃からで、やがて労働着としてカルサンなどの袴に取って代わった。
 時代と地域によって、股引にも変化と種類が存在した。参考としてまとめておきたい。

 股引を分類する上で、江戸と上方では、その呼び方が違う。
 江戸では縮緬、絹製の物を「パッチ」、木綿製の物を「モモヒキ」と称した。
 一方、上方では素材に関係なく、足首まである長い物を「パッチ」、旅行用の短い猿股状の物を「モモヒキ」と呼んだ。
 総じて「パッチ」は緩やかに作られ、「モモヒキ」は細めに作られたが、後に「川並」など極端に細い股引も現れる。

 現在の「股引」は単色の藍染や晒しの物が多いが、江戸時代までは、時代の流行や着用者の階層によって、様々な柄や色が存在した。テーマとずれるのでここでは深く触れない事とする。

(「パッチ」という言葉は朝鮮語で袴を意味する「パッチ」から来ているとも、英語の「pants」から来ているとも言われる。)



まとめ:軍服としての股引

 この新しく活動的な下衣である股引は、『雑兵物語』を初め、江戸時代の多くの兵学書・軍学書の類に軍装の下衣として登場し、戦国時代の戦陣の衣装として着用されたイメージを強く持たれている気がする。
 しかしながら具足着用時の略式下衣、又足軽の下衣として軍装書に紹介されたが、それは江戸時代の話である。合戦絵図でも『島原の乱図』に股引を着用した足軽が描かれるが、これも江戸時代に入ってからの戦争であるし、製作に至っては江戸後期である。
 では江戸時代以前の股引着用の状況はどの様な物であったのだろうか?
 戦国時代の合戦を描写した図を見てみると、殆どその着用例を見つける事が私には出来なかった。もしかすると軍服としては、当時のイメージにはそぐわないのかも知れない。江戸時代の製作であるが、『賤ヶ岳合戦図屏風』に股引を着用している人間を見つける事が出来た。しかしながらその人物は鎧を着用しておらず、他の人物の描写から考えると、一角の武士や、足軽とは違う様である。上の『慕帰絵』でもそうであるし、屏風絵『花見鷹狩り図』でも、股引を履いているのは中間・小者と思われる下級武家奉公人であった(前者は馬、後者は犬を扱う。ただ後者の図では下衣に上衣の裾をたくし込んでいたので、履いているのは股引では無いのかも知れない)。ある時期まで股引は身分の低い武家奉公人だけの限られた衣装である様に推測出来る。

 単純に、中世末期から近世初期の股引は中間・小者といった武家奉公人の限定的な下衣である・・・と言い切る事は、まだ出来ない。とはいえ、戦国時代の活動的な略式戦闘服であった、或いは一般的な足軽の戦闘服であったと考えるのは、それ以上に危険なのでは無いだろうか?


『賤ヶ岳合戦図屏風』より



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