足軽/同心



 足軽と言う言葉が表現する所は、一つの身分や職種であったり、単に歩兵を指し示すだけであったりと、様々である。ここで指す意味は、近世の同心/与力(注1)へと連なる足軽という身分/兵種である。
 いわゆる足軽と聴くと中世の歩卒とイメージする事が多い様だ。確かに多くは最下層の歩兵であるが、中には騎乗した足軽も存在する。決して足軽=歩兵ではない。
 結論から先に述べれば、足軽とは即ち中世日本の傭兵である。

 足軽は中間/小者と言った他の武家奉公人とは違い、若党(わかとう)/悴者(かせもの)等と同様に、名字を有する侍身分である。それは戦闘補助員ではなく戦闘要員だからである。

 しかし侍身分とはいえ、一般の武士とは大きな差がある。
 武士とは武力を主人に提供する事で、一族の土地等の既得権益を保護、更には加増してもらう事を期待する人々である。それらは家禄などと呼ばれ家単位であり、給料制に成った場合でも、子々孫々受け継がれる事を期待している。
 しかし足軽が主人から与えられる褒美は既得権益の保護や加増ではない。個人の仕事に対する報酬であり、しかも決して家禄ではない。身分が固定した江戸時代に於いても、足軽(同心)は一代限りの個人契約と成っている。基本的には縁故採用で子供や縁者が空席を埋めるが、跡継ぎの給与等は先代の給与と関係なく新人扱いから始まる(現代では当たり前の給与システムだが、これが家禄を貰う武士ならば代替わりしても家禄分の給与は変わらない。あくまでも一族への給与だからである)。
 この様に予備役(郷士)では無く、常備軍の武士であるにも関わらず、彼らは一般の武士とは区別され、時には準士分という身分に置かれた。それは彼らが本来は一時雇いの傭兵であったからである。


注1:同心とは足軽、与力とは足軽頭を指す。江戸幕府では与力は騎乗を許される身分であった。
 元々は南北朝頃から使われた言葉で、足軽階級より上の奉公人を同心と呼んだが、織豊時代には同意になり、江戸時代に至ると足軽の名称に取って代わった。藩によっては足軽の名称を用いたり、足軽と同心が別の身分であるなど、多岐に渡る。

足軽の歴史
 足軽の語の初出は13世紀初頭成立の『保元物語』だし、足軽の名前が盛んに登場し始めるのは14世紀前半の南北朝動乱である。しかし足軽の様な傭兵達の姿は古代より見る事が出来る。
 例えば律令制下の軍隊の中には給料制の兵士が既にいた様だし、国司の郎党の多くは雇われであった。また鎌倉幕府も元寇対策として鎮西府に、ごろつきの類を送り込んでいる。
 この様に足軽の様な傭兵集団というのは、古くから存在している。
 一方でこういった武力集団が活躍するのは軍隊がぶつかり合う場だけには限らない。年貢の取り立てに「乱暴衆」「乱暴人」「悪党」などと揶揄された集団は、どうも足軽の様な輩で在った事が推察されているし、村同士の争いごとに加勢する「同類」と呼ばれる連中も同様である。

 一時雇いの傭兵で在った足軽であるが、室町時代末〜徳川時代初頭にかけて、常備軍化されてゆく。これは戦争の頻発だけでなく動員規模の肥大化にともない、優秀な兵隊を常に、出来るだけ多く抱える必要が生じたからであろう。
 足軽衆は頭領に率いられた自立した集団で、雇い主から給料を受け取り、分配するのは頭領の役目であった。これは江戸時代の与力と同心の関係へと引き継がれる。ただし常備軍化されてゆく過程の中で、足軽一人一人が雇い主の陪臣(頭領の家来)ではなく直臣(主人の家来)化され、足軽頭は足軽を監督するが預かっているに過ぎないという寄子寄親制化されてゆく。江戸幕府に至っては同心は、総じて御家人(御目見得以下の直臣)である。こうして足軽衆は自立した傭兵団としての本質を失い、主人直属の常備軍団と化してゆくのである。


足軽に成った人々
 足軽や同心は長くとも一代限りの御抱えである。よって彼らは何処か別の場所、別の身分から傭兵の世界に足を踏み入れ来た訳である。
 この足軽に成る過程に二つのパターンが在る様に思う。
 @募集に応じる。
 A既に徒党を組んでいた。
 @の場合は徴募の依頼を受けた口入屋や足軽頭の呼びかけに応じた者。Aの場合は既に頭領を中心にした既存の集団が雇い主の求めに応じたという事である。

 @のパターンを見てみよう。
 足軽を必要とするクライアントがいると、その求めに応じて口入屋が村々を廻って志願兵を募ったり、町では辻で足軽頭が同様に志願兵を募る事となる。或いは儲け口(例えば土一揆の発生など)が生じそうな臭いを感じ取ると、足軽頭が徴募をする事もある様だ。
 こういった募集にどの様な人々が応じたのであろうか。零落した武士や、元々流浪の民等もいた様だが、多くの一般の人々(百姓)も加わっている。彼らは人災や天災で飢餓、貧困に陥った人々であったり、より良い生活や収入を求めている人々である。また農閑期の出稼ぎという場合もあった。特に町には、こういった人々が既に大量に流入しており、徴募には困らなかっただろう。
 軍隊に入れば餓える事は無いし、最低限の生活が保障される。しかもリスクが伴うものの戦場では手柄を立てるチャンスも在れば、乱暴狼藉と呼ばれた略奪・収奪のチャンスも在る。良い稼ぎ場である。内戦や貧困に喘ぐ国・地域の軍隊、警察、ゲリラ、マフィアの雇用口としての存在と同じである。

 Aのパターンも見てみよう。
 既に既存の集団が足軽として雇い入れられるケースであるが、彼らも初めは@のケースで在ったかも知れない。何かの機会で徒党を組んだが解散せず、足軽頭に率いられて流浪していたのかも知れない。傭兵団である。
 こういった集団は戦時となれば足軽衆として力を発揮したが、戦の無い時は山賊・海賊・盗賊の類で食いつないだ。時には雇い主に応じて「乱暴衆」として暴力を振るった事であろう。応仁の乱の頃、骨川道賢なる三百余人の手下を率いた足軽頭は、普段は獄吏の手下で、盗賊にも通じた目付だったという(注1)。政府に雇用されていれば軍人・治安機関員、首になればマフィアというパターンである。
 又ただの無頼の徒ではなく、特殊な戦闘技能を備えた集団もおり、求めに応じて雇われた。彼らはスッパ・ラッパ等と呼ばれ情報戦や不正規戦(待伏・誘拐・暗殺など)に力を発揮した。彼らも又、足軽である。

 こういった戦場に雇用を求めた人々・集団が、足軽や奉公人と成る時代は近世と共に終わりを告げる。戦争の減少と、豊臣・徳川政権による平和の構築によってである。
 彼らの何人かは、上は太閤、下は足軽や奉公人など武士化する事に成功した。ある者は傭兵・戦争奴隷として海外に流出していった。そして多くの者は兵士である事を辞めて、大規模公共事業を初めとする新しい産業に雇用を求めた。兵士である事を辞めず、日本から出ていく事もしなかった者は浪人となり、侠客と成った。


注1:骨川道賢に関しては、その役回りから非人の目付を連想させる。非人などから足軽へと流入した者達もいた事を連想させる。


主要参考文献
藤木久志『雑兵たちの戦場』
笹間良彦『足軽の生活』


戻る



悴者(かせもの)/若党(わかとう)



 侍身分の武家奉公人。

 時代や組織によって呼ぶ所の意味合いが違い、特に若党は元々は武家の若者組という意味であったらしい。
 中世後期から近世になると、奉公人の最上位で侍(戦闘員)だが騎乗の許されない軽輩で、他の奉公人や足軽と同様に御抱え(雇われ)身分であった。即ち傭兵である。

 「足軽、悴者ら」などの様に一緒くたに語られる事が多く、実際に両者とも傭兵である。足軽との違いが不明瞭だが、足軽が傭兵団の兵士だとすると、基本的に悴者/若党は武士の雇われ従者である。


戻る



中間/小者/嵐子



 中間(ちゅうげん)、小者(こもの)、嵐子(あらしこ)などと呼ばれる者は、侍身分の下、武家奉公人の底辺に置かれた人々である。主人から名前を貰う事が出来たが、名字は持てなかった。

 中間は仲間(なかま)とも呼ばれ、鎌倉時代から現れ、元々は夫役として徴収された者が奉公人に成ったのが始まりの様らしい。侍と小者の中間に位置する身分の武家奉公人である。主人に付き従う従者であるが、戦国時代以降には大名直轄の鉄砲部隊の兵士(戦国期毛利家)や、長槍部隊の兵士(『雑兵物語』)、番衛(江戸幕府)として、侍身分の足軽の様に使われたりもした。
 小者は小人(こびと)とも呼ばれ、中間の下に置かれる武家奉公人。彼らは従者として、主人の身の回りの世話や雑役をこなし、草履持ち・尿筒持ち等として戦場までも付き従った。
 嵐子(荒子、荒師子とも書く)は、中間・小者の最下層に置かれた武家奉公人で、戦場での雑役や死体の片付け、炊事などに従事したという。

 時代・地域で性格が異なる様で、彼らを下人身分と総称する事もあり、また小者を下人と呼ぶ事もある。厳密な意味を取るのが難しい。
 これは筆者の推測であるが、奉公人と呼べる様な者は中間だけであり、小者は武家の下人なのだろう。従軍した百姓が手柄を立てて奉公人として取り立てられる際、下人ではなく中間にしてやるという事からも、それがうかがえる。


 こういった奉公人たちは、元々は家の郎党などの譜代の物が努めていたのだろうが、中世後期になると、中間は無論、小者も年季奉公の奉公人が占める様になる。
 年季奉公の武家奉公人達は、一人の主人に奉公し続けるのではなく、何度も奉公先を変えた。時には年季が明けない内から勝手に奉公先を変えたり、複数の主人に股掛けで仕えたりしたので、主人の間で奉公人を巡って争論が生じる事も在った。中には戦の途中で主人の旗色が悪くなると敵方に寝返るケースも在った。転職先は同じ領内だけではなく、他領や敵地に及ぶ事もあり、スパイが紛れ込む恐れも在った様である。主人や領主達は対処に苦慮した様である。
 年季奉公の奉公人は、大体が一年から半年契約の奉公であったようで、二月(耕作の初め)と八月(収穫の終わり)が契約更改の時期であったが、慶長の末頃(江戸時代初頭)には二月だけになり、元和四年(1618)に江戸幕府により公定とされた。

 これらは農村部の者が都市部へと、富を求めて流れ込むという社会的状況と、動員人数を増やす為には譜代の奉公人だけでは足りなかったり、譜代を持たない身分の者が下僕を必要とする身分に成ったりと、武家が人手を必要とする事情とが合致したのであろう。
 もっとも下人を初めとして譜代の奉公人は常に存在したであろうし、これらの奉公人は主人に最も近しい従者で在ったから、優秀で信頼の置ける奉公人を抱えておくというのは、主人にとっては何時の時代も大切である事には変わりないであろう。


主要参考文献
『角川日本史辞典』
藤木久志 『雑兵たちの戦場』


戻る



下人



 時代や地域によって性格が異なる様だが、下人とは即ち奴隷・農奴である。
 下人には「譜代下人」と「年季奉公下人」とが在る。前者は永代に渡って下人身分であり、生まれた子供もまた下人である。一方で後者は期限を区切って下人として奉公し、年季が明ければ下人では無くなる。
 下人は家庭内外の労働に使用され、奴隷であるから財産として相続や没収の対象と成り、人身売買も行われた。

 生まれついての下人もいるが、後天的な下人もいる。彼らは経済的な理由などから下人に落ちる場合もある。自身が担保に成っていたり、家族を口減らしや借金の為に売るのである。
 中には人さらいや戦場での乱取りによって拉致されたケースも多い。拉致された人間は乱取りをした人々の家庭で下人に成るか、奴隷商人に売られて商品として市場に出される。こういった人身売買の流通路は、南蛮人をも巻き込んで、大陸や東南アジアにまで広がっていた。朝鮮出兵の際には、半島から大量の人間が拉致され、日本に連れてこられたり(この頃を起源とする九州の焼き物は、半島からの奴隷によって生み出された例が多い)、人身売買の市場に流されている。
 こういった事象に対して豊臣政権を初め、拉致した人間を帰す様に命令が出たが、何処まで守られたか疑問であるし、適用もせいぜい過去二年ほどで、それ以前に拉致された人間は対象には成らない。取り返すには残った家族が自力で見つけだし、多額の身代金を払わねば成らなかった。

 逆に下人から百姓などに上昇する者もいた。
 中世後期から近世に入ると、家族を持つ事を許される下人も増え、徐々に百姓として自立する下人も現れた。また百姓の家に嫁入りする等すると、下人身分から脱出する事も可能であった。


主要参考文献
横田冬彦 『天下泰平』日本の歴史16
藤木久志 『雑兵たちの戦場』


戻る