距離について


 微細な尺度である「尺」「丈」よりも長い「歩」「間」「町」「里」についてまとめてみたい。
 「尺」などが物の長さを測るのに対して、これらの尺度は土地の距離や面積を測定する際に使用されるものである。
 これらの尺度も又、明治の法定度量衡が制定されるまでは、非常にあやふやなものであった。特に「里」などはバラバラで、非常に感覚的なものですらあった様だ。また土地面積の測量に関しては、その長さが「尺」とは違い縮む事もあった。それは面積に対して年貢をかける際に短い物差しで土地を測れば、それだけ土地の面積が数字上広がり、かける年貢の量が増やせたからである。



 この単位は中国から渡来したもので、人間の二歩を「歩」とした。
 「歩」は長さ単位としても、面積単位としても使用され、長く中国では一歩=六尺(又は六尺四方)とされていたが、尺の伸びに合わせて一歩=五尺(又は五尺四方)に変化する。
 日本では古くは大化二年に「歩」を文章中に観る事が出来る。慶雲(704〜705年)頃、一時は唐制に合わせて一歩=五尺(五尺四方)になるものの、一歩=曲尺六尺(六尺四方)が定着する。
 この「歩」に変わって「間」が土地丈量に使われ始めるのは、戦国時代以降である。


 この単位は朝鮮半島より渡来した単位で、土地ではなく建築に関する単位として生じた様であり、土地丈量の単位として日本で使われる様になるのは、戦国時代以降である。
 本来六尺から八尺の間で非常に安定していない単位であり、測量等に使用する際は、わざわざ曲尺で「間」の長さを指定する必要があった。
 古くは八尺から七尺であった様だが、室町時代には六尺五寸で安定し、関西地方の建築の基準ともなる。
 この「間」が更に縮むのは太閤検地の際で、この時に一間=六尺三寸になる。さらに江戸時代にはいると六尺一寸、延宝六年(1678年)には、ついに六尺となる。
 先述した様に、これは年貢の割り出しの為の寸法故、為政者の都合で規定が変えられる。自然な流れとして、この後、六尺四方を切る「間」が規定される事も在った。
 この「間」が安定するのは、明治の法定度の制定で一間=六尺と規定される時まで待たねばならなかった(尚、面積に関しては、「方六尺=歩=坪=3.3u」となる)。


 この「町」という単位は日本独自の物である。
 長さと面積両方に使われ、長さは「60歩=町」であり、面積は「60歩四方=3600歩(坪)=10段(反)=町」となる。


 この単位は中国から渡来した尺度であるが、その示す長さは日本では非常に不安定である。中国では大体において500m前後であり、地方によってその長さはまちまちで、国民党政府により、500mと規定された。
 日本では大宝律令で「里=五町=300歩」と規定されている。
 ところが「里=六町」という記述や、「里=36町」という記述もあり、また国によっても随分と規定に違いが生じる。例を挙げると
  北条氏分国 「=六町」
  今川氏分国 「=60町」
  武田氏分国 「=六、あるいは36町」
  山陽道    「=48 あるいは72町」
  筑前      「=50町」
と、実に雑多で「里=36町」に統一されたのは明治二年になってからである。
 基本的には非常に感覚的な単位の様で、人の足で小一時間で進む距離を「一里」として計算した様である。



戻る