民間尺について



 それが年貢や公的な儀礼等、異なる様々な集団が関わる事柄となると、統一した共通の尺、即ち公定尺が必要となる。しかし同じ集団の中であれば、わざわざ公定の尺を使う必要は無い。生活共同体、あるいは職能集団、さらには取り引きする間で共通の尺度があれば、事は足りる。
 物差しに関しても同様だし、わざわざ手に入れにくく高価な物をどれほど使ったか怪しい。自分達に使い勝手がよい物差しを作ってしまっても良い。実際そうした様で、時代・地域・集団によって様々な尺度・物差しが使用されてきた。
 その多くは伝えられずに消えた物も在る様だし、今に伝わる物も在る。

 とはいえ近代国家としては立ちゆかない為、明治8年に法定尺を制定し、民間尺としては「鯨尺」を除いて廃止・禁止され、その姿を消してゆく。

 以下に資料から拾い上げる事の出来た服飾に関係する民間尺を、時代ごとに羅列してみた。
 その名前を見いだしても長さを割り出すヒントすら無い物もあり、考証家によって推測されたり、計測されたりした寸法に関しても、疑問・間違いがあったりするというのは先述した通りである。
 しかも職能集団が作った物差しといえども、現在の工業規格品の様な厳密さを求められないのであるから、民間の尺がどの程度の規格統一が可能であったかは怪しい。資料などにある計測寸法を記したが、曲尺=約30cm程度で大体の目安として考えて欲しい。




・大たかはかり

 『氏径卿日次記』ェ正四年(1463年)に見える。
 大きな竹尺の様で、鉄尺よりも長い様である。当時の京都での布の裁断などに使用した民間尺である様だ。
 呉服尺に連なる尺ではないか、という説もある。
 公式な裁断の尺は曲尺(鉄尺)であるが、民間では呉服尺・鯨尺に限らず、広く長めの尺が使われていた様である。


・鷹ざし

 奈良に在ったとされる甲冑用の物差し。曲尺の一尺一寸五分。
 『古今要覧稿』では『多門院日記』の天文十二(1543)年四月二十九日の項に見える「長尺」を、この鷹ざしではないかと言っている様で、この推測が高ければ室町末期頃には存在していた様である。
 小泉袈裟勝氏は、後には呉服尺のごとく使われたのではないか、と推測されている(『ものさし』p・163)。

・呉服尺

 曲尺一尺二寸の布用の尺。
 古くは鯨の髭でつくられ、「くじら尺」と呼ばれていた。
 室町末期に現れ、江戸時代にかけて広まった様であるが、福島以北には広まらなかった様である。
 (福島以北の東北地方は、明治になっても曲尺で採寸した)


・鯨尺

 曲尺一尺二寸五分の布用の尺。
 その名前は鯨の髭で作られた所による。
 室町末期に現れて、江戸時代に関東以西に広まった。
 呉服尺よりも広まった範囲は狭く、その登場も新しい様であるが、明治の法定尺には唯一民間尺として採用された。
 法定尺としては、常に曲尺一尺二寸五分として計算されるので、法定曲尺が「享保尺」から「折衷尺」に変更されると、自動的に短くなった。明治24年の度量制定時に、「25/66m=約37.879cm」と決定される。


・文尺

 江戸時代の足袋用の尺。
 一文銭(曲尺八分幅)十枚幅で一尺とした。即ち曲尺八寸。
 ちなみに十六文キックは、一尺六文キックで、曲尺一尺二寸八分キックで、約38.784cmキック。




 資料から主に、服飾に関わる尺を拾い上げて並べてみた。日本、大陸問わず、民間の尺は公定尺に比べて長くなり、しかも僅かながら伸びていくという傾向が在る様だが、今回少数を時代ごとに並べてみたが(文尺は別として)、その傾向が現れている様で興味深い。名前は残っていなくとも、室町時代中期以前にも、長めの布用民間尺が在ったとも推測出来なくもない。
 また非常に興味深いのは福島以北では、布の裁断に曲尺を使っているという事実である。


戻る