公定尺(曲尺)について



 現在、日本の尺度はメートル法であるが、古来より最も一般的であったのは尺であった。
 この尺、明治24年に法定尺として「一尺(曲尺)=10/33m=約30.3cm」と決められ、布用の尺として、「鯨尺(一尺二寸五分)」が残された。
(ちなみに商取引は昭和34年1月、土地建物に関しては昭和40年3月31日にメートル法に切り替えられた)

 それ以前の古式の尺に関してだが、これが謎に満ちている。幾つかの考証により大よその長さは推測出来る様だが、厳密な長さというと難しい。
 理由の一つとしては、物差しの現物が少ないという事である。また、現存していても、時間の流れの中で、物差し自体の長さが変わってしまっている可能性もある。例えば木製品は縮むし、鉄製品は伸びてしまう。
 更に物差しの種類が非常に多い。例え同じ種類の物差しであっても、工業製品ではないので若干の狂いが生じてしまうし、複製を作る為の原器も上記の様な理由で長さが変わってしまいかねない。
 文章として長さに関する資料が残ってはいる様だが、その筆者が計測に使った物差しの長さも良く分からないという状況であるらしい。例えば「Aという尺は、現在の曲尺で何尺何寸に当たる」という記述があっても、その現在(当時)の曲尺の長さが先ず不明瞭である。

 こういった状況をふまえて、まとめてみた。



一、尺以前の事

二、公定尺(曲尺)の導入

三、公定尺(曲尺)の推移

四、法定尺の確立


五、様々な曲尺系統の尺

・唐小尺/大宝小尺
・唐大尺/大宝大尺

・高麗尺

・鉄尺
又四郎尺

・竹尺
念仏塔婆尺
享保尺

・折衷尺






一、尺以前の事

 尺は中国から入ってきた尺度である。
 中国から尺度が導入される以前に、日本でも土着の尺度があった。その幾つかを挙げてみたい。

アタ・・・手幅

ツカ・・・握り拳の人差し指と小指の幅。

フセ・・・指の幅

ヒロ・・・両手を広げた幅。


二、公定尺(曲尺)の導入

 中国で生まれた尺であるが、元々はアタと同様に手幅で計る尺度であった。これが、徐々に伸びて約30cm台の尺になった様である(その辺りの事情に関しては今回は触れない)。この尺を大尺、本来の短い尺を小尺とし、後者を儀礼用の物としていた。
 また土地を計測する為の尺として中国北部には長めの尺が存在し、これが日本では高麗尺と呼ばれたものの様だが、ハッキリはしていない様である。

 この三種類の尺が大陸から渡ってきたのが、いったい何時であったのかは分からないが、701年の『大宝律令』で制度化される。
(即ち「十分為寸」「十寸為尺」「一尺二寸為大尺一尺」「十尺為丈」)

 この制度化される頃には、既に定着していたであろうと推測される尺であるが、前述した様に三種類の尺が、渡来人によって持ち込まれた。
 中国から渡来した、即ち唐尺大小。それに高麗尺である。
 高麗尺を大宝大尺、唐大尺を大宝小尺とする説もあるが、現在では唐大小尺が、大宝大小尺であると言うのが定説の様である。
 高麗尺は大宝大尺/唐大尺の一尺二寸とされている様だが、その存在を疑問視する意見も在る幻の尺で、少なくとも土地を計測する為に使われたと推測される尺であるが、律令制以後は姿を消している。
 小尺は儀礼的な事に使用されたり、また唐では僧衣の寸法を採る尺として使われたので日本の寺院にも伝えられているが、やがて廃れてしまう。
 最終的に残ったのが大尺で、これが後の曲尺へとなり、中世以後唯一の公定尺となる。

 大宝大尺(法定尺約九寸七分〜八分=約29.39〜.69cm)
 大宝小尺(法定尺約八寸一分=約24.55cm)

 高麗尺(大宝大尺の一尺二寸か?)



三、公定尺(曲尺)の推移

 律令制の崩壊と共に、度量衡の規定も灰燼に帰す。様々な民間尺(後述)が表に現れると共に、公定尺であった大尺にも変化が見られる。
 まず長さの伸びがみられる。
 そして鉄尺竹尺の分離である。(鉄尺・竹尺両方に対して曲尺という言葉を一般的に使う為、ここで使う曲尺の語は、唐大尺〜法定尺系列の尺を指す事とする。)

 伸びに関しては法定尺に、二〜三分短かった大宝大尺は徐々に伸び、鎌倉時代には現在と同じくらいの長さに落ち着いた様である。

 そして鉄尺と竹尺であるが、この差が出てくるのは十世紀後半頃からである。
 鉄尺は、曲尺(まがりがね)・かね・さしがね等と呼ばれ、竹尺は竹量(たかはかり)等と呼ばれた。
 この物差しは素材が違うだけではなく用途も違い、鉄尺は番匠らによって建築などに使われたり、小道具の製造に使われ、一方で竹尺は一般的な採寸に使われた。ただ、その用途に限ったわけではなく、鉄尺を布の裁断に使用する事もあるが、必ずどちらの尺を使うのか指定された。
 主要な製造場所も違い、鉄尺は難波、竹尺は京都であった。
 長さも若干違い、江戸末期の計測では竹尺の方が四〜七厘(1〜2mm程度)長い。



四、法定尺の確立

 近代を迎えて厳密な度量衡を必要とした明治新政府は、最終的にはメートル法へ統一していく政策を立てるが、現実問題として法定尺を制定しなければならなくなった。
 所が実際に法定尺を決めようと市中の物差しのサンプルを集めてみてひっくり返る事になる。とても近代的法定尺では受け入れがたいほど、その長さがまちまちなのである。確かに普段の生活をする上で、数ミリの誤差は気にならない。
 では原器にすべき最も権威在る物差しはどれか。・・・しかしこれも全く分からない。鉄尺の職人群は「又四郎尺」(後述)、竹尺職人群は「念仏塔婆尺」(後述)を掲げ、それぞれが権威在る由来の伝説を持っている。それは皆、大宝大尺に連なるのである。
 結局、政府は様々な事情の中で「折衷尺」を採用した。これは鉄尺、竹尺を折衷した尺で、市内にある尺の中でも平均的であったし、何よりも年貢計算に使用する升(幕府が制定し、江戸と京都で作られた)に適合出来た(京都升とは厳密には合わなかったが、許容範囲以内だったらしい)。また、この「折衷尺」が丁度、1mの10/33であった。
(この辺りの経過に付いては、小泉袈裟勝氏の『ものさし』に詳しく、かつ刺激的に書かれているので是非とも参照して欲しい。)


 こうして唐大尺として日本に渡来した曲尺は、日本の長さの単位として主流を無し、昭和40年までに公的に廃止されるまで公定尺・法定尺として使用され続ける。そして現在でも民間の度量衡として生き続けている。




五、様々な曲尺系統の尺


・唐小尺/大宝小尺

 尺の原型に近いとされる尺。
 儀礼用として使われたが、直ぐに廃れた。
 法定尺約八寸一分=約24.55cm

・唐大尺/大宝大尺

 曲尺の祖形。
 法定尺約九寸七分〜八分=約29.39〜.69cm


・高麗尺

 中国東北部に同様の尺の痕跡が在る事から、その辺りから朝鮮半島にかけて使われた量田尺が日本に伝わった物と推測される。
 およそ曲尺の一尺二寸という説から、大宝大尺は高麗尺であったとか、呉服尺は高麗尺の流れを継いでいる・・・といった説もある。



・鉄尺

 曲尺の一種。主に建築等に使われた金属製の尺。
 江戸時代の採寸では竹尺よりも四〜七厘短い。
 難波で主に生産されたが、江戸中期以後、全国に生産が広まり、三条に主要生産地が移ってゆく。。
 ちなみに難波の鉄尺職人達の原器は、聖徳太子が四天王寺を建立する際に作った物差しの写しであるとしている。

・又四郎尺
 永正年間(1504〜21年)の京都の指物師又四郎が作ったとされる尺。
 この尺を鉄尺系の物差しとして法定尺の選考に使用された。
 選考に使用されたサンプルの実測は30.258cm



・竹尺

 曲尺の一種。タカハカリ。
 竹製の尺で一般的な採寸に使用された。
 江戸時代の採寸では鉄尺よりも四〜七厘長い。
 京都で生産されたが、江戸中期以後は小田原にその座を奪われていく。
 

・念仏塔婆尺
 京都の竹尺職人達の原器。
 近江国伊吹山から掘り出された念仏塔婆に刻まれていた尺によるとされる。

・享保尺
 徳川吉宗が紀州熊野神社の古尺を写して天文観測に使ったとされる尺。
 長さは念仏塔婆尺と同じとされる。
 明治政府に最も権威在る尺度として認定され、明治5年に法定尺に採用されるが、諸般の事情により廃される。
 しかしそもそも、ねつ造された尺ではないかという説もある。
 法定尺選考に使用されたサンプルの実測は30.363cm。



・折衷尺

 伊能忠敬が享保尺と又四郎尺を折衷して作ったとされる尺。しかし伊能忠敬が、これを用いたとする証拠はなく、ねつ造の疑いが強い尺。
 市内に出回る物差しや、年貢用の升と符合した為、明治8年にこれを法定尺として採用した。 法定尺選考時に使用されたサンプルの実測は30.304cm。
 また1mの10/33に近かった為、明治24年の度量衡制定の際に、「メートル原器の0.15℃における10/33=30.303...cm」とした。


 


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