投稿日
: 2001/10/30(Tue) 21:01
投稿者
: 木蘭
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タイトル
: 『柿渋クラフト』より
スレッドが伸びましたので、こちらに移します。
柿渋一揆の項です。
「染色と柿渋一揆」(p.58〜61)
ここまで一貫張りや渋団扇、和傘や合羽、染色用の型紙など和紙への染め、船や
健在などの木材の塗装など、歴史的な柿渋利用の幾つかの事例をみてきましたが、
ここで繊維製品を染めたものというと、酒袋とか漁編みであって、もっともありそうな、
衣料への利用がないことに気がつきます。
柿渋の優れた染着性にもかかわらず、何故か布の染色には特殊な目的以外には、
利用されることがありませんでした。
その理由のひとつは、においの問題であったことが考えられます。柿渋は柿のみを
圧搾して絞って採取しますが、それを一年くらい以上保存して醗酵させてから、
つかうのが普通でした。醗酵させますと、柿渋の比重が増して粘着力がつき、防水性が
より強くなるからですが、醗酵した柿渋は、熟した銀杏の実のような非常に強い
揮発性の不快な臭気があります。
柿渋を、板材や和紙など比較的平坦な表面に塗布した場合は、臭気は揮発して
時間の経過とともに発散し、何日か外気にあてて脱臭すればよかったのですが、
繊維に付着した場合は、成分が繊維の中に浸透するために、外気にあてて発散するには
長い脱臭期間が必要になります。
前出の酒袋の場合でも、渋染めの後丹念に水洗いして夏の強い日光の下で完全に
乾燥して、更に三、四ヶ月放置したものを使用するというくらいに気を遣っていました。
したがって、これを身につける衣類などにつかうには、相当のためらいがあったことと
思われます。
次に考えられることは、柿渋は空気に触れて乾燥すると硬化する性質があり、
それが防水や防腐機能をはたしているのですが、布を染めた場合繊維が硬くなって
布のしなやかさを減殺してしまいます。身体へのなじみを考える衣類への利用がないのは、
当然のことかもしれません。
奈良、平安の昔から、わが国は、藍染めをはじめさまざまの天然染料による染めでは、
世界でも有数の染色先進国でした。染色が、植物や動物、鉱物の色素を抽出して
布に染着させるものに対して、柿渋の発色は、タンニンの酸化による変色現象です。
つまり柿渋は、防水剤や防腐剤であっても、染料ではありませんでした。
いかに美しい色に染まっても、納屋に保管している防水剤で染めた衣服を、
衣装として着るには、相当の覚悟がいったと思われます。
柿渋が衣類の染色としてつかわれたのは、太古の時代に呪術や装飾のために、
泥や樹液で繊維を染めていた頃の、柿渋の発見にまでさかのぼらないければなりません。
山岳宗教の修行者である山伏の墨染めの衣が、野生の柿の実から採った柿渋と
鉄分を含んだ泥をまぶして染めたものであったという説がありますが、山の事情に精通していた
彼等が、自分たちの所持品に耐候性をつけるために柿渋をつかったことは十分考えられます。
近世になって備前の国のある藩で、領主の圧政に耐えかねた農民が武装決起して、
領主を襲う農民一揆がありました。その時の農民たちのいでたちが、貧困をアピールするために、
自前の柿渋で染めた衣服で身をかためていたので、後にこの一揆のことを柿渋一揆とよび、
農民運動の歴史の中に柿渋の名を残しています。
しかし、実は柿渋染めの衣服ではなくて、柿渋色のカラー統一であったとか、
柿渋で染めた筵旗を掲げて襲撃したとか諸説があり、本当は柿渋の着物ではなかったとも
いわれています。いずれにしても柿渋染めは染色の範疇の外にあり、貧困のシンボルで
あったことがわかります。
現在の柿渋の人気を考えますと、時代の流れを感じます。
ああ、疲れた・・・。
投稿日
: 2001/10/31(Wed) 00:27
投稿者
: IZAYOHI
Eメール
: izayohi@hotmail.com
URL
: http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/
タイトル
: 渋染一揆の場合
渋染一揆の服装ですが白装束(死装束)だったそうです。
しかも、むしろ旗は持たなかったし武装もしておりませんでした。
領主を襲撃したわけでもありません。
ただし農民ではあったようです。
というわけでどうも渋染一揆と柿渋一揆はぜんぜん違うもののように思われます。
当時は一揆がいろいろあったのは確かでしょうし。
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投稿日
: 2001/11/08(Thu) 06:19
投稿者
: 木蘭
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 『概説・渋染一揆』
『概説・渋染一揆』
大森久雄・著
岡山部落問題研究所・発行
強訴勢集合のようすは、夏のことなので白い菅笠をみなかつぎ、風をはらみ笠の摺れ合う音が高かったという。
有合わせの衣服で弁当を持ち素手で行った強訴である。蓆旗や竹槍などを用意したとの史料はない。(p.15)
強訴勢につき白装束であったと記述している例がある。史料にはそのような記録はない。
夏のことなので白い菅笠をみなかつぎ、笠のすれあう音が高かったとは記録されている。
竹槍やむしろ旗を持ったようなさし絵がある。誤りである。(p.65)
以上の事から分かるのは、『柿渋クラフト』に書かれる様な
近世になって備前の国のある藩で、領主の圧政に耐えかねた農民が武装決起して、
領主を襲う農民一揆がありました。その時の農民たちのいでたちが、貧困をアピールするために、
自前の柿渋で染めた衣服で身をかためていたので、後にこの一揆のことを柿渋一揆とよび、
農民運動の歴史の中に柿渋の名を残しています。
しかし、実は柿渋染めの衣服ではなくて、柿渋色のカラー統一であったとか、
柿渋で染めた筵旗を掲げて襲撃したとか諸説があり、本当は柿渋の着物ではなかったとも
いわれています。いずれにしても柿渋染めは染色の範疇の外にあり、貧困のシンボルで
あったことがわかります。
というのは明らかな間違いである。
彼らは柿渋染めの物を身につけてもいないし、同系色の物で統一を計ってもいないし、筵旗すら掲げてもいない。
そして武装決起したわけでもない。
更に言えば、強訴を起こした皮田(皮多。かわた。これは自称で、岡山藩の身分用語としては穢多。)が貧困に対して決起した訳ではないというのが大きな問題である。
被差別身分とはいえ身分内に経済的格差が生じており、決して一律に貧しい身分階層で有ったというのは間違いの様である。
藩は天保13年に「穢多に対し無紋で渋染・藍染の衣類を用意して着用するよう命令した。」(p.9)が、
嘆願書を提出し抵抗した結果、「藩は木綿の縞小紋の古着を買い調え着用するようにとその政策を後退させた。」(p.9)
安政2年になって百姓を初めとして全ての身分の者に倹約令を発布したが、
29条からなるこの倹約令の最後の5条は穢多に向けられたもので、
その中に「新調の時のみ無紋の渋染・藍染の衣服を用意する事」「定紋の着用は不必要」という内容が含まれている。
柿渋染めの服が何を意味するかはここでは明らかではないが、
重要なのは穢多のみの5条には抵抗するが、他の身分の者にも出された前段の部分に付いては受け入れるとしている点である。
つまり平等を求める要求であって、貧困とは関係がない。
渋染めの衣がイヤならば、藍染でも良いわけである。
こうして調べてみると・・・酷い誤解である・・・。
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投稿日
: 2001/11/08(Thu) 10:56
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
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:
タイトル
: 白い菅笠については
ユニフォームの可能性として保留すべき論点だと思いますが。
それこそ「蓑笠」の例も考えると。
もっとも,その場合でも民俗学的意味合いが読み取りにくいのは確か。
単なる結束のための記号かもしれないし,
それですらないかもしれない。
投稿日
: 2001/10/30(Tue) 23:55
投稿者
: 仁民慶
Eメール
: jinmink@bushinavi.com
URL
: http://www.bushinavi.com/
タイトル
: 同一のものを言ってるようですな。
お疲れ。
> 近世になって備前の国のある藩で、領主の圧政に耐えかねた農民が武装決起して、
> 領主を襲う農民一揆がありました。その時の農民たちのいでたちが、貧困をアピールするために、
> 自前の柿渋で染めた衣服で身をかためていたので、後にこの一揆のことを柿渋一揆とよび、
> 農民運動の歴史の中に柿渋の名を残しています。
> しかし、実は柿渋染めの衣服ではなくて、柿渋色のカラー統一であったとか、
> 柿渋で染めた筵旗を掲げて襲撃したとか諸説があり、本当は柿渋の着物ではなかったとも
> いわれています。いずれにしても柿渋染めは染色の範疇の外にあり、貧困のシンボルで
> あったことがわかります。
> 現在の柿渋の人気を考えますと、時代の流れを感じます。
近世の、備前の、って言ったら同一のものをイメージしてるでしょうね。
ってわけで、↑の記述はどうやらこの本の著者の勘違いくさいですね。
「渋染一揆」を「柿渋一揆」と表記しちゃってて、なおかつその一揆の主体者を誤認しちゃってるような。
で、勘違いから導きだされた説になっちゃってるのやも。「柿渋」に重点置きすぎてたのやも。
著者にツッコミ入れてあげるのも、学問的にはいい事だと思うけど。
「渋染一揆」について書かれてるほうのを正しいとすれば、
あえて渋染めのを着た。 んじゃなくて、
渋染めの服を強制されるのは嫌だ。 って趣旨の一揆のようですから。
まぁもしかしたら、逆である可能性もあるけど、そしたらそれはそれで「渋染一揆」をめぐる通説の一部分をひっくり返す可能性もあるわけだし。
両者の間で議論がかわされると一歩前進で面白いやも。
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投稿日
: 2001/10/31(Wed) 00:04
投稿者
: 仁民慶
Eメール
: jinmink@bushinavi.com
URL
: http://www.bushinavi.com/
タイトル
: ひょんな所からあぶり出されてくるのが面白いですな
というか。
近世の、備前の、つまり岡山の、
「渋染一揆」では、
・主体的にあえて着た
のか
・着るのを強制されるのは嫌だ といって着なかったのか
あぁそこが気になってきましたぞ〜。
まぁ個別案件の↑についてはそゆ細かい所が気になりますけど、
いずれにせよ、大枠においての「渋染」の意味あい的なものはだいたい見えてきたような気がしますな。
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投稿日
: 2001/10/31(Wed) 00:33
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: でも丸めて考えるのは
危険ですよ。
近世(江戸時代)には確かに記号化してると思いますが。
中世の「犬神人」(いぬじにん)が差別されてたという
見解自体に私は反対だし,
(単純な貴賎でなく別の世界の人間,という意味合いなら別)
たとえば金融方面でもっと大活躍してた「日吉神人」(ひえじにん)は
「黄衣」(こうえ)と白い杖で知られていました。
色だけ切り離して論じないで,
もう少しイメージをトータルに考えないと,
短絡に陥る可能性があります。
身分差別観は近世に入って急速に強化されていくものなので,
それを単純に中世まで遡らせるのは危険かと。
少なくとも中世〜近世の実践的ビジュアルを考えるなら。
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投稿日
: 2001/10/31(Wed) 00:41
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 近世ですら
議論が分かれるようですね。渋染めの意味。
http://www.tcn.ne.jp/~masah/tyr39.htm
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投稿日
: 2001/10/31(Wed) 01:21
投稿者
: 仁民慶
Eメール
: jinmink@bushinavi.com
URL
:
タイトル
: 現代ですら
> 議論が分かれるようですね。渋染めの意味。
>
> http://www.tcn.ne.jp/~masah/tyr39.htm
そうそう、だから事前に紹介してたんだよね
http://www.bushinavi.com/forum/BBS01/wforum.cgi?no=93&reno=92&oya=84&mode=msgview&page=0
↑の方面で行われてた議論は途中で中断したみたいですけど、追ってくとこれはこれで面白いかも。
もちろん、色だけに意味合い性を持たせるってのには私も危険だとは思ってるよ。トータルが大切。ね。材料とかも。
でもまぁ、現代のデザイン等の商売の現場ですら、色ってのには意味合い性の説明が求められるのも又事実の一つだよね。
ブルーはクールで知的、とか、赤は燃える愛。とか(笑)
現代もそうであるように、どこまでの時代がわからないけど色に意味性を持たせるのはいつの時代でもありうることではありますな。
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投稿日
: 2001/10/31(Wed) 03:04
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: ああ,紹介済みでしたか
これは失敬。
いや,もちろん記号として明らかなものへの憚りや配慮には,
並々ならぬものがあるだろうと思うのですが,
正直分からんのですよ。
だから事例を多く集め,結論を急がないことが重要かと。
少なくとも我々の色に対する抽象的思考には,
図像学など,西欧近代の還元主義的な捉え方が
影響しており,偏見となっている可能性もありますから。
投稿日
: 2001/10/30(Tue) 21:06
投稿者
: 木蘭
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 柿渋色
さらに福田邦夫氏の『色の名前辞典』の「柿渋色」から引用。
p.143
柿渋色の柿色は、一般の身分社会を離脱した人の特異な風俗を表したという説がある。
たとえば中世の山伏の衣装が柿の衣であった。
彼らはどこでも自由に通行できたので、源義経の例のように、落ち武者、密使、忍びの旅人などが
山伏姿に身をやつす事が多かったという。
それが後世には、乞食の風体になり、あるいはハンセン病の人の身に付ける衣になり、
農民一揆の服装にもなった。
歌舞伎の定式幕の柿色、遊女屋ののれんの柿色も、
非日常性の意味を秘めているというのである。
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投稿日
: 2001/10/30(Tue) 22:26
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 柿渋色に意味を持たせる場合
『柿渋クラフト』のほうは勘違いくさいが,
こっちの記述は気になるなあ。
本当に,百姓一揆一般と柿渋色に関係があるなら,
昨日来書いてきたことが正鵠を射ている可能性もあるし。
山伏装束を「柿帷子」(かきかたびら)と言うのは本当。
「非日常性」という言葉は婉曲な表現であり,
ズバリ「身分」で包括したほうが分かりやすい。
役者や遊女はいわゆる「芸能民」だから。
また「乞食」や「らい者」は僧形を取るのが普通。
仏教者側もここに深いコミットメントを持ち,
彼らを保護・救済していたしね。
でも柿渋色の服かどうかは知らないなあ。
墨染めでも構わないだろうし,
「らい者」は黄色って史料も,あった気がする。
単純な上下関係を前提に被差別階級と見なすのは弊害が多いが,
一般社会の外側にいる人々として捉えられていたのは確か。
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投稿日
: 2001/10/31(Wed) 06:55
投稿者
: 木蘭
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 雑兵物語
にも出てきますね。
柿渋色の帷子。
傷からの出血が酷くなるので着ない方が良いぞという例で。
足軽の中で着ていたヤツがいたという事か、
よくないから着ていたヤツはいないという事かは分かりませんが、
そこからは色に対する身分的ネガティブな感情は感じませんが・・・。
汚れているから出血が酷くなると言う凄い理由ではあるまい・・・が。
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投稿日
: 2001/10/31(Wed) 23:19
投稿者
: ハスケ
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 中世の悪党も着てた?
法政大学出版局の、ものと人間の文化史シリーズの「つぶて」より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
異類異形なるありさま、人倫に異なり、柿かたびらに六法笠を着て、
烏帽子、袴を着し(中略)柄鞘はげたる太刀を佩き、竹長柄、さい棒、
杖ばかりにて、鎧腹巻きを着たるまでの兵具更になし。
1300年前後の悪党について書かれた播磨国の地誌『峯相記』の一節である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ん〜、ってことは、人とは違うぞ、という意味合いでカブいてる悪党が
着てたのかな?
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投稿日
: 2001/11/01(Thu) 08:12
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: この文脈だと
ああ,そういえば「悪党」という例がありましたね。ごもっとも。
この文章で特筆される理由としては,
異様な(忌み嫌われる)格好である,という可能性と,
粗末な(みすぼらしい)格好である,という可能性がありますね。
どちらにしても結論は「普通着ねえよな」なので,
にわかに断じ難いですが。
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投稿日
: 2001/11/01(Thu) 08:23
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: わざわざ注意してるなら
着ていたヤツ,着る可能性のあるヤツがいる前提でしょうね。
やっぱり,中世においては「粗末なもの」というところかなあ。
悪党の例を考え合わせると。
江戸時代には明らかに身分と連動した表徴になるんだけどね。
幕府による歌舞伎役者への強制とか。
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投稿日
: 2001/11/05(Mon) 19:46
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: しかし,そもそも
山伏と足軽ならば,
単純に耐水性を備えたフィールドファティーグと考えてもいいんだよね。
悪党は足軽に準じる,で済めば,これはこれで面白いのだが。
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投稿日
: 2001/11/07(Wed) 16:59
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 『異形の王権』で
触れられていました。蓑笠と並んで。
不勉強というか,斜め読みが知れるなあ,我ながら。
網野善彦大先生が言ってるのを,繰り返してもしょうがないわな。
別の視点から行かないとね。
福田邦夫氏の『色の名前辞典』の記述にある,
歌舞伎の定式幕や遊女屋ののれんについても言及があったので,
これが元ネタなのでしょう。
具体例としては,明応五年(1496年)近江の馬借一揆と
「柿帷衆」についての説明あり。
■■■ 以下,引用文 ■■■
この「柿ノキモノ」と非人集団との関係については,なお追及すべき余地が残っており、
後述するようにそれは決して非人のみの服装ではなかったが、
さきの太良荘の百姓の宣言を考慮にいれ、
私は、柿帷を着た馬借たちはまさしく自ら非人の姿をすることによって、
斎藤の侵入軍とあくまでも戦う不退転の決意を固めていたのではないかと推測する。
■■■ 引用文,以上 ■■■
そのあと山伏の柿帷や「癩人法師」の柿帷についての言及があって,
山伏や禅僧の俗化と「異形」が非人・乞食の服装とみられるようになっていく動きが
オーバーラップされる形で語られています。
『峯相記』の悪党については,やっぱり「異形異類」の一類型として,
語られていますね。
その意味では,まあ思ったとおりの文脈だったわけで,
自分の史料感覚が鈍っていないことには安心したわけだけど……。
イメージリーディングの線で,
あまりに一元的にまとめられてしまうのも,
なんかなあ,ホントかよ,という気がします。
逆の視点,『雑兵物語』と実用方面からの
捉え返しが課題になってきましたね。
「集団で」「意図的に」じゃなかったらどうなの,という。
きっとそこに被賤視性はないと思うんだなあ。
そのうえで,「悪党」を脱ファンタジー化する一歩となれば最良。
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投稿日
: 2001/11/08(Thu) 05:26
投稿者
: 木蘭
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 『民具研究の軌跡』
宮本馨太郎氏の「足半草履の研究」の中にいくつか史料の引用があるのですが、
その中に柿色の文字が見受けられます。
『源平盛衰記』
子息ノ小冠者ハ不敵ノ奴、案内ヨク知テ候ラン、召具被ベシトテ、片屋ニ有ケルヲ呼起シテ心ヲ合テ進セケリ、
柿ノ衣物ニ同色ノ袴、節巻ノ弓ニ、猿皮靱、鹿矢アマタ指テ、半物草ヲゾハキタリケル、弁慶ニ相具シテ参タリ。
『大的体拝記』
中間の出立は、折烏帽子の紐をときて着て、ゑぼしかけをする。直垂は、或は薄柿、或は香摺、家々の紋をする。
こういう文章を読むのが大変苦手なもので、『源平盛衰記』の文中で装具の説明が弁慶の物なのか、小冠者の物なのかが一寸分からないです。
それと後者の文章の香摺(こうろう?香りの良い濁り酒なら字が違うみたいですし)が何かは良く分かりません。
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投稿日
: 2001/11/08(Thu) 10:42
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 主体は小冠者ですね
> 半物草ヲゾハキタリケル、弁慶ニ相具シテ参タリ。
この文脈は「履いてる人が,弁慶と一緒に」と読むべきなので,
服装の主は「子息ノ小冠者」になります。
この文章が出てくる巻数/段数/段名は分かりますか?
なぜ,この人がそうした格好をしているのかを考えないと,
そこに込められた意味までは考察できないので。
『大的体拝記』は,『群書類従』に入ってるヤツですよね?
この史料の成立年代などといったプロフィールが分からないと,
なんともいえないところではありますが,
おそらく「香摺」はカスリの当て字でしょう。
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投稿日
: 2001/11/09(Fri) 05:10
投稿者
: 木蘭
Eメール
:
URL
:
タイトル
: Re: 主体は小冠者ですね
> この文章が出てくる巻数/段数/段名は分かりますか?
分からないですね。
> なぜ,この人がそうした格好をしているのかを考えないと,
> そこに込められた意味までは考察できないので。
>
むう。
> 『大的体拝記』は,『群書類従』に入ってるヤツですよね?
そうです。
> この史料の成立年代などといったプロフィールが分からないと,
一応、室町時代に分類されている様ですが・・・。
孫引きなものでハッキリした事は言えないのです。
申し訳ないです。
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投稿日
: 2001/11/09(Fri) 15:49
投稿者
: 木蘭
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 訂正です
> > この文章が出てくる巻数/段数/段名は分かりますか?
>
> 分からないですね。
嘘です。
書いてありました。
第36巻 鷲尾一谷案内者事
所収・引用書名:改定史籍集覧 編外 参考源平盛衰記 下 38頁
で『大的体拝記』は
群書類従 第14輯415武家部16 713頁
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投稿日
: 2001/11/09(Fri) 20:43
投稿者
: 道庁の赤い星
Eメール
:
URL
:
タイトル
: 鷲尾三郎義久の故事だとすると
地元の小豪族で,狩りをよくやってるヒト,というキャラクターなのかな?
いずれにせよ宗教的/禁忌的意味合いはゼロですね。