・従軍医師
・従軍僧侶
・『雑兵物語』より
・『砦草」より
一、戦場に於ける医療体制武力衝突が怒れば必然として死傷者が生じるのは当然として、軍隊が動けば死傷者のみならず病人も生じる。兵士・軍属の消耗を防ぐ為にも、傷病者のケアは勿論、兵糧から衛生管理などにも気を配らねばならない。ここでは中世の戦場に於ける医療体制について観てゆきたい。
従軍医師
近代軍隊においては、各部隊単位で軍医・看護兵及び衛生兵が配属される。各部隊レベルで対応出来ない時は、より上級部隊に傷病兵を送り、最終的には後方の軍病院施設に送致するという一元的な医療体制が出来上がっているが、前近代の軍隊にその様なシステムは当然として無い。
古来より武将が戦陣に御抱医師を伴ったのは良く知られる事である。幾つかの資料に挙がった例を列記してみたい:
・足利義尚は江州出陣に上池院、竹田法眼、祐乗坊の三人を従軍させた。
・武田信玄は常に板坂法印を随身させた。
・豊臣秀吉は常に施薬院全宗を随身させ、朝鮮出兵の折りには曲直瀬玄朔、坂浄慶らを従軍させた。
これら随身した医師達は、軍全体の医療を担っていたのではない。抱えた武将達の健康管理、及び戦傷を癒す事が任務である。近臣や手柄のあった者への褒美として治療を施しす事もあるが、あくまでも個人・一門が雇った私的な従軍医である。
一方、この様な医師を抱える事が出来ない小身の武士や陣夫達の治療はどうであったかというと、これが良く分からない様である。
ただ受けた矢を仲間内で抜く記述や絵画を散見するし、『雑兵物語』の中では、以前に外科医の薬箱持ちをしていたという夫丸の弥助などが仲間の戦傷者に治療のアドバイスをしているし、それ以外の者も盛んに自身の知識を披露している上、怪我をした草履持ちの加助本人も刺さった矢を釘抜きで抜けと指示を出している。また武士は出陣の際に、火打袋の中に各自の要薬を携帯した。それらをふまえると、恐らく自身や仲間内で治療を施したのであろう。
また陣中に御抱医師以外の金創医もいくらかは居た様ではあるから(後述)、そういった金創医に治療を依頼する事も在ったであろう。ただし医師とは名ばかりの無学文盲の徒も多かったので、高度な医療を受けられたかは疑問である。
戦友の顔に刺さった矢を抜く
「後三年合戦絵詞」より
では将たる者、陣中の医療体制を全く気に懸けなかったかというと、そうでは無い。医術・医療は重要な兵学・兵法であるから、工夫を凝らした様だ。『雑兵物語』も藩の陣中手引きであり、そこに医療に関する記述が在る事からも裏付けられよう。しかし兵学なら軍事機密として秘した訳で、依って具体的な記録が殆ど無い事となる。
逆に医師の側からも、医術を普及せんが為に啓蒙を行った様子もある。永禄九年(1566)毛利陣営に在った日本医学中興の祖と言われる曲直瀬道三は、従遊の徒に医学を広める目的で『雲陣夜話』を編述した(もっとも内容は医学・医療一般に関してで、戦陣医療に関してでは無いが)。
また朝鮮出兵の際には、大量の医師が動員され、奈良・京都の五十歳以下の医師は全て秀吉の命によりて名護屋(肥前の名護屋。朝鮮出兵の際の出撃拠点であった)に送られたと記録がある(『多聞院日記』文禄二年二月二六日条)。これらの医師がどの様な役割を担わされたかは不明だが、出陣に際して各陣営が医師を確保しようとしていた事は確かで(後述)、朝鮮出兵に限らず、それなりの数の医師が陣中にいたと思われる。もっとも曲直瀬道三が従遊の徒の為に書をしたためた程で、その医術レベルは高くなかった事も確かであろう。
機密扱いであった陣中医療が公に披露されるのは、太平の世になる江戸時代に成ってからである。『雑兵物語』もそうであるし、戦陣手引書である『甲冑着用弁』『武学拾粋』などが刊行される様になり、その中に陣中医療の手引きが記されている。
軍陣医療の専門書が出版される様になるのは、外国からの驚異を感じ始めた文化八年(1811)に成ってからで、水戸藩の侍医である南陽が記した『砦草』が初めである。これはこれまでの陣中に於ける医術・医療についてまとめた内容で、衛生管理から傷病の手当てまで幅広くまとめた手引書であり、体系的な医学書では無かった。
従軍僧侶
同朋衆や僧医など、武家に付き従う物として僧侶、僧体の者が身近に居た訳だが、こと戦陣にもまた従軍僧侶というべき存在が居た。彼らは戦陣の慰問的役割を果たす者であったり、死体の処理と供養を行う者であったり、主人の最後を見届け、供養や遺品を遺族に届ける等、後始末もする者もあった。中には当然、僧医で傷病者の手当を行う従軍医師を努める者もいたわけである。
元々同朋衆や僧医に時宗の僧侶が多かった事は前頁で記したが、天正年間(1573〜1592)に記された『異本小田原記』には「総じて時宗の僧、昔より和歌を専とし。金創の療治を事とす。」とあり、依っていずれの武将も、時宗の僧侶を従軍させ、死者や傷病者の始末に当たらせたという具体的な記述もある。そもそも金創医の出身階級を見ると武士階級が多く、また時宗の信徒としても、出家者の出身階級としても、武士階級は大きかった様である。こういった事が関係しているのかも知れない。
従軍僧侶とは異にするが、戦禍に巻き込まれた者に治療や施しを行ったり、敵味方区別を付けない救済活動もまた宗教団体のよって行われていた。広義の意味の戦陣医療と言えるであろう。宗教団体が百姓(農民の意に非ず。一般大衆の意)に医療を施す例は古くから在るが、戦禍に巻き込まれた人々に対する活動の記録は、室町時代に入ってからのものの様である。二つ例を挙げる。
まず応永二三年(1416)の上杉氏憲と足利持氏との戦闘の際に、現地の時宗遊行寺(神奈川県藤沢市)の僧侶と近住の人々が、敵味方の区別無しに傷病者の治療と、戦死者の死体の処理と供養を執り行っている。
また六角義賢と三好長慶との闘争において、少なくとも永禄四〜五年(1561〜62)の間、イエズス会が毎月三名の当番を決めて寄付を募り、慈善活動を行っている。
主要参考文献
「従軍医師」においては、『明治前日本医学史・第三巻』「創傷療治史」・『室町安土桃山時代医学史の研究』を主に参照した。
「従軍僧侶」においては『室町安土桃山時代医学史の研究』「第九章・当代における戦傷病者の救護と宗教活動」を参照した。
二、戦陣に於ける医療知識例(除く金創治療)金創治療を除く、戦陣の医療事項を列記する。これらは私が個人的に読んだ本に掲載されていたものを列記したに過ぎない。
またこれらは中世ではなく、江戸時代に入ってからのものであるし、特に『砦草』は江戸時代も後期に入ってからのものである事に留意されたい。
『雑兵物語』より
・飲料水について
敵地の井戸水は飲まず、川の水を飲む。敵地の井戸には、大抵は糞が沈めてあるから。それでもよその土地の水は当たる事が多いので、杏の種を絹に包んだ物、或いは生まれた土地のタニシを干して乾燥させた物を水の入った鍋に入れて、その上澄みを飲むと良い。
・一人に対する一日分の食料支給量について
水一升(約1.8リットル)
米六合(約900グラム)
塩0.2合(約19グラム)
(夜戦などがある時は増やす。)
・負傷者を連れて退却する方法
主人や味方に怪我人が生じ、連れて退く際に使用する為、長さ一尋(約1.5m)・幅半幅(別項参照)の布を携帯しておく。携帯方法として、具足の上帯もしくは襷にする等がある。
負傷者を運ぶ方法は二通りある。弓鉄砲を射かけられている際には、抱きかかえる様にして、自分の体を盾にする。長距離を退く必要が在る際には、困難なので背負っても良い。
『砦草』より(『日本史小百科20・医学』p.106参照)
・飲食衣服は常より心がけ柔弱に見える様な事は避ける。
・鳥獣の肉を生で食べてはいけない。
・野菜には塩を付ける。塩は諸毒を消す力がある。
・陣地を築く際は湿地を避ける。湿地では必ず病を生じるのから。
・陣地を築く際には、常に水脈を調べる。
・火を常時燃やし、毒虫や寒気を払う。
・煙にむせたら大根汁を飲む。
・野営の食事にはニンニク、ネギを用いる。ニンニクは常に腰に常備する。