〜古代
鎌倉時代
室町時代・織豊時代
実相
一、医療発展史概説
戦場の医療に付いてまとめる前に、前提となる日本の医療史について簡単に述べておきたい。
〜古代
最新の知識や技術の多くが海の向こうからやって来て、日本の状況にあったものへと改良されていくと言う流れは、医学・医術の発展に於いても同様であったといえる。
日本土着の医術は既に存在したが、それは経験医学で在ったり、呪術の類で在ったといえ、体系的な医学は成立していなかった様である。
海外より医学が渡来した初めの記録は五世紀で、朝鮮半島を経由して大陸の知識が伝わった。
さらに七世紀に入り遣隋使、続いて遣唐使が派遣されるようになると、より直接的に大陸の最新の医学が渡来するようになる。また医療制度としても、唐式制度の模倣である律令制が施行されるようになると、医療を国営化し、医師を官僚として登用する様になる(渡来系が多かった事もあり、身分的には余り高くはなかった)。
一方、官制医療とは別に医療の一端を僧侶が担ってゆく。精神的な側面で考えれば、これは衆生救済という大乗仏教の思想から言えば自然な事である。また現実問題として、入唐求法僧が招来した経典の中に印度の医学、医術といった知識が含まれていたという事(仏典では例え話として医療の話を使う事が多い)、僧侶は当時一級の知識人であり、大陸の最新技術、知識の伝道者であった事が挙げられる。
医学・医術、医療制度は大陸の模倣であったが、平安時代にはいると、より日本人の理解もすすみ、大陸の医学・医術書を『金蘭方』『大同類聚方』『医心方』といった医学・医術書に編纂しなおす様になる。
鎌倉時代中世に入っても最新医学・医術が海外から渡来するという事に変化は無かった。遣唐使の廃止以後、最新の医療技術(宋の医学・医術)を持ち帰ってきたのは禅宗系の僧侶であった。
大きく変化したのは律令制の崩壊と共に、医療の主軸が官制医療から、民間(非官制)医療に移った事である。そしてそれを担ったのが、僧侶であり医師でもある僧医であった。
当時の経済、技術、知識の多くを抱え込み巨大化したのが中世寺院・仏教教団であり、積極的に大陸に渡って、なおかつ中国の医療技術を習得出来るだけの教養人という事を考えると、自然な流れと言えるだろう。
室町時代・織豊時代この時代も前代と大きく流れは変わらなかったが、大陸(元・明など)の最新医学や医術を伝え、日本の医療を担った中に、僧侶以外の知識人が増加して行く事に変化があった。室町幕府が朝廷に対抗する上で、お抱えの民間医を僧官(僧正・僧都・律師など)に任命していくという動き等は在ったが(後に是正されるが、僧官に対して官医の官位は低かった)、徐々に医療の世界から仏教色が薄くなり、儒教の影響が強くなる流れが出来始める。
この時代、医学・医術が幾つかの点で、大きく変化した。
まず以前は患者の症状を観て、医書(マニュアル)に沿って対処するような局方医学がもっぱらであったが、より現場の医師の臨床経験や実証を重視するような医学が導入され始める。一つは曲直瀬道三の李・朱(明の医師)の医学で、ただ病魔を攻撃するのではなく、滋養強壮に努める事を旨とする(我々が東洋医学、漢方と聞いて連想するような療法と言える)。もう一つは明から招来された傷寒論医学で、後に永田徳本によって実地の医療に採用された。病は欝滞によるものであり、峻剤で攻撃せねばならないとしたが、やはり医師の主体的な経験と実証を重視した。これらの医学論派が近世医学を確立してゆく。
また今までは内科、外科程度しか別れていなかった医術が、眼科、産婦人科、口腔科といった専門医術が特化し始めた事が挙げられる。
さらには室町時代後期の南蛮人(ポルトガル人)の渡来により、日本人は初めて西洋医術との出会いを果たす。室町時代時代後期には宣教師達を中心とした南蛮人によって、江戸時代初期にはオランダ人によって伝えられた。眼鏡・タバコといった物が医療品として、また新たな感染症として梅毒が伝えられたのも、この時期である。とはいえ鎖国政策などもあり、西洋医術は簡単な外科処置程度しか伝わらず、西洋医学・医術が本格的に学ばれる様になるのは、18世紀前期の徳川吉宗の治世になってからである。
実相
どんなに最新の医療技術が渡来し、国内での医療技術の発達を観ようとも、その恩赦に預かれる人々は、限られた人間であった事を忘れては行けない。為政者や宗教勢力によって療養施設が作られたり、巡回医療を行う奇特な医師もいた事はいたが、それは少ない幸運であろう。結局の所、多くの人は昔ながらの経験療法と魔法療法に頼っていたと思われる。また身分が高かったり、有徳の人(資産家)であっても魔法療法に頼ったし、これは現代医学が普及した現在においても変わらない。
経験療法は代々伝わった経験にそった物で、かぶれにはドクダミの葉が効くとか、ふぐの毒に当たった時は砂浜に埋めろとか、あそこの湯は万病に効くとか、そういった物である。現在でも通じる医療もあるかと思えば、迷信に他ならない酷い物まで散見する。
魔法療法は病気は祟りや穢れ、神の怒りが原因と考えられたので(特に疫病の流行は怨霊が原因と考えられた)、これを払う為に呪術的処置を行う。お払いや祈祷、御祓、物忌といった行為である。
この二つが入り交じった療法が執り行われる訳だが、栄養面でも、衛生面でも劣悪な環境の中で、基本的には体力任せであった様に思われる。
現代医療の届かない第三世界の現状は参考に成るだろう・・・。
とはいえ最新の医学・医術といっても、経験療法を高度化したのものに他ならないし、しかもそこには宗教的思想や呪術的手法が加わっていた。例えば古典的な医学は陰陽五行説に沿って人体の病理を理解していたし、多くの医書には、治療の際にある種の呪文を唱えるように指導している。室町時代も後期に入ると、さすがにこういった事は廃れていくが、外科や婦人科、眼科に至っては長く継続されていた。
なお医学史の概説をまとめてみたが、世に広く流布した医学・医術は、広く流布する努力が行われた医師や学派の努力の結果である。この他にも表には余りでなかった医学・医術も在ったかも知れない。特に秘法と称する医術が一門や地域ごとに存在するという事に留意する必要が在るかも知れない。
二、外科と金創医
最後に外科と金創医に関する歴史を取り出してまとめておきたい。
外科は初め創腫と呼ばれ、その名の通り腫瘍、おでき、腫れ物の類を扱う医科であった。火傷や金創(金属の武器で受けた傷)等の外傷に対する治療についても執り行ったが、それは主たる目的では無かった様である。また骨折、脱臼に関しては按摩師が受け持っていた。
外科という名前は鎌倉時代には日本に渡来していた様であるが、その名が使われ始めるのは南北朝の頃であり、それまでは腫物医師、疵医師等と呼ばれていた様である。この時代、もっぱら金創を受け持つ外科医が現れ金創医と呼ばれた。これら腫物(はれもの)医師、疵(きず)医師、金創医などは、多くが時宗の僧医であった様である。
室町時代の末になると金創学が一つの専門医学として確立され、従来の外科(瘡科、瘍科)から独立して行く。使用する秘薬などの差によって多くの流派を派生させている。更に金創医は「婦人の産後も腹の疵に同じ」(注1)と説き、助産も行ったのは大きく外科とは違う部分である。とはいえ織豊時代から江戸初期の頃に起こった鷹取流外科などは、従来の外科治療の他に金創の治療も行っている。元々外科医は金創の治療も行っていたのであるから、金創医の派生後も外科医による治療も継続されていたのであろう。
室町時代後期には南蛮医術が渡来する。日本で最初の銃創治療の記録として、1562年博多において、ポルトガルの外科医師免許を持つルイス・デ・アルメイダの指示を受けた日本人医師によって、弾丸の摘出手術が行われ、僅か15日で全治せしめたという物がある(注2)。その後、南蛮医学は外国人や日本人の医師によって唱道されるが、キリシタンの弾圧に会い、それはかなわなかった。
江戸時代にはいるとオランダ医学が伝わり、遙かに先進していたオランダ医学が外科を席巻するようになり、それを受け付いだ医師達によって、様々な流派が立てられていく。もっとも、本格的な医書の研究が可能となったのは江戸中期に成ってからと言うのは、前述した通りである。
なお、南蛮医学とオランダ医学は共に西洋医学に他ならず、特に差異が在ったわけでは無いようである。(注3)
本道と呼ばれる内科に対して、独自の発展を遂げた様に見える外科であるが、その治療の性質により不遇な状況に於かれていたという点に付いても述べておく必要が在るかと思う。
外科は多くの治療で刃物や針を使用し、当然血液に触れる機会も多い。これは血は穢れているという日本の宗教観から、賤視の対象となるには充分であったようである。富士川游氏によると(注4)、江戸初期はこの傾向が益々激しくなったという。この賤視の傾向がいつから始まり、いつまで続いたのかは分からないが、恐らく中世を通して賤視の傾向が在ったように推測出来る(もしかすると戦場医療に関わった者の多くが時宗の僧や信徒であった事は、この事を表しているのかも知れない)。こういった環境から、外科を専らとする医師は僅かな医療技術しか持たない、医師とは名ばかりの「無学文盲の徒」が多く、外科の医学・医術研究や出版事業も少なかった様である。
注1:永正元年版『金創秘傳』 富士川游『日本医学史』p.220参照。
注2:服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』p.377。
注3:富士川游『日本医学史』p.416
注4:富士川游『日本医学史』p.409
『日本医学史』 富士川游
『日本史小百科20・医学』 服部敏良
『室町安土桃山時代医学史の研究』 服部敏良