生地の素材について


ここでは装具の生地となった素材について言及する。
主に福井貞子氏の『木綿口伝』を参考にした。




木綿について


最も日本に於いて一般的とされる木綿についてまとめる。

綿の伝来は799年に三河に漂着したインドの崑崙(コンロン)人が持参したのが初めであるとされるが、
残念ながら、栽培には失敗し、途絶えてしまった様である。
(p.9)
綿が再び伝来するのは15世紀からで、
大陸からの唐綿布が輸入品として流入し、一部上流階級の布として珍重された様である。
(p.9)
木綿の優秀さが認識されるにしたがい、唐木綿や南蛮木綿の輸入量も増大する。
それに伴い織り具、綿種も同時に流入、
15〜16世紀にかけて三河等を初めとしてで栽培・織りも行われ初め、
綿布は全国に普及していく。
(p.10)

日本での綿作について引用する。

「一般に綿作が日本各地に広まり普及して行ったのはいつ頃であったろうか。
 三河の国では明応年間(1492〜1501)に綿作が行われ、
 その後、文禄年間(1592〜96)頃に各地で普及したと言われている。
 大和地方では文禄二年(1593)頃と言われ、慶長五年(1600)には
 大和白木綿が製織された。」
 (p.11)

では実際に消費者側への普及度はどうだったのか?
同書には『日本歴史』(読売新聞社 1963)から例を挙げている。
孫引きになってしまうのだが、引用してみたい。

「天文年間(1532〜54)頃に木綿が普及したので、
 武士の衣料として麻の布子から木綿の布子に変えさせ、
 軍需品の馬衣や胴服、軍服、鉄砲用火縄に木綿糸を使用し、
 貴重であったと言う。
 武士は衣服を麻衣から木綿に着替えたが、
 庶民が手にするまでには約百年の歴史を経なければならなかった。」
 (p.26)

時代が下り江戸期に入ると、
今度は逆に武士の衣料は絹になり、木綿は庶民の衣料と変化するようであるが、
(p.28〜29)
高価な繊維であった事には変わりない様である。
貧富の差、地域差というのはあるものの、
野良着などの生活着として、かなり後年まで麻や樹皮繊維が使われている。


よって戦国期をどの範囲にするかは別として、
例えば川中島の合戦(1553以降)再現など、武将クラスならば木綿を使うのは十分に自然であるが、
足軽クラスの軍装として木綿というのは不適切であると考えられる。


木綿以前の繊維について


日本における織りの記録は『古事記』の神話の中に既に現れるが、
在来織物として「倭文(しづ)布」の名前が挙げられる。
この織物に関しては、
縞や筋のある布を織る倭文部と呼ばれる技術者集団が存在し、
全国的に分布していた様だという以外、
その布自体がどういった物であったかという事すら分かっていない様である。

野生の、後には栽培された植物繊維から、多くの種類の織物が作られている。
藤から作る藤布、楮からは紙布、屑からは屑布、科の木からは科布・・・等。
(布と分類するかは疑問だが、藁で編んだ物も同様の物といえるだろう。)
特に多く作られ一般的なのが麻で六世紀頃から織られたと推測されている。
その繊維の優秀さから、木綿以前は、「生活衣服全般が麻一辺倒であった」(p.3)。
これら豊富な植物繊維による織物は、木綿以後も廃れる事はなく、
近代に入っても平行して織られ、使用された。
(現在に至っても使用されているのであるから当然であろう)


絹織物について


絹は大陸から流入した織物であるが、その渡来の正確な年代は不明とされる。
「『続日本記』(797)によれば、和銅五年(712)に高級絹織物である綾や錦を
 各地方で織部司の指導によって初めて織らせた国が二十一カ国あるという。」(p.4)
絹織物が発達したのは奈良時代になるが、あくまでも貴族の衣料として納めさせる物であった。
租庸調の調として納める為、技法が地方に拡散していったといわれるが、
この本の中では各地に絹織物が広まった別の一説として、
「応仁の乱(1467)によって、京都西陣を中心とした錦の技法を、
 武将が地方に分散し豪農となり、地方で錦織りを普及させたとも言われる。」(p.4)
をあげている。
普及したとはいえ、絹織物は高級布であり、
江戸期には、ある一定の身分の者以下の絹の着用を御法度とする令も見受けられた。(p.28)
しかし養蚕農家が売れない屑繭を使い、着物を織っていた例もあるので、
一元的に身分の低い庶民が絹を使用していなかったとは言えない事を留意して欲しい。
(福井貞子氏『野良着』を参照)



この生地は「武士ネット・フォーラム」に投稿した物を加筆訂正した物です。


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