足半について



(川崎市立日本民家園収蔵)


着用例(履いている足半は自作した物)


 足半(あしなか)とは、踵の無い短い草履の一種である。
 その形状から、足裏の前足底と土踏まずの部分しか保護する事が出来ないが、飛び出た指がスパイクの代わりをなして滑らず、踵を浮かせて飛び跳ねるように軽快に歩行できる。
 また、踵が無い為に泥が跳ね上がる事がなく、足と履物との間に砂や小石がつまる事も無い。水中においても、小さな形状から水の抵抗が少なく、川の流れに足を取られる事がない。さらには鼻緒に芯縄を使うので、草履の様に鼻緒が切れる事が無く丈夫である。
 ただ独特な歩行の方法故に、長距離の歩行には向かなかった。

 見た目以上に便利な履物で、今ではその名前すら忘れ去られつつある足半であるが、中世の武家にはポピュラーな履物であったし、半世紀前くらいの農村では、立派な現役の履物であった。
 現在でも鵜師の足下に見る事が出来る。


形状


 草履と同じく、「台」と「横緒」、「鼻緒」とで構成される。

 鼻緒は草履の様に「すげ緒」でゆわうのでは無く、「芯縄」を使って留めるのが特徴で、この芯縄を鼻緒として横緒に結ぶ際、「角結び」にする。
 この角結びだが、マムシ除けの呪いがあると信じられていた。
 角結びの方法や、異名は幾つか存在する。(例・トンボムスビ)

 足を置く台は、野良作業用と水場で使う物とでは大きさが違い、水場で使われる物の方が小さい(前後に短い)様である。(鵜飼に使われる足半は特に短く小さい)
 台を形作る芯縄の組み方にも「交差式」「並行式」がある。

 他の履物と比べて、手早く、かつ少ない藁(わら)で作れる長所が在る様だ。


異名

 民具の常として、同じ物であっても、様々な異名が存在する。
 江戸時代の『松屋叢考歌詞考』には
「半物草は尻切ともいひて、尻切は革にて製るよし、小車錦に見えたけれど、革製は後の事なるべし、関東の方言に足半とよぶもの也。」
とある様に、「半物草」「尻切」とも呼ばれた様である。

 尻切は革製の草履で、千利休が尻切を元に雪駄を作ったとされる履物であるが、上記のように平安・鎌倉の時期には草製であり、足半と同じ様な形状で在ったらしいが、これが足半と同じ物であるかは、未だ断言仕切れぬとの事である
(宮本馨太郎「足半ゾーリの研究」参照)。

なお、角結びから「ツノムスビ」「ベコゾーリ」「コッテ(雄牛)ゾーリ」、その他では「ヤマゾーリ」「コバゾーリ」「オンボ」「トンボゾーリ」などがある。




歴史


発生

 宮本馨太郎氏の論文「足半ゾーリの研究」(『民具研究の軌跡』収録)における絵画・文献資料の研究が大いに参考になった。
 それによると、足半とそれに類する名前が初めて現れるのは、「尻切」の名で小野宮実資の日録『小石記』の万寿二年(1025年)の条の様であるが、先述したように、この前期型尻切と足半とが、同一なる物かについては断言を許さない。
 続いて現れるのが「半物草」の名で、鎌倉時代に書かれたとされる『源平盛衰記』の中である。
 「足半」の名前が現れるのは室町時代応永元年〜二十七年(1394〜1420年)の間に記されたと推測される『今川大双紙』にてである。

 絵画資料に、その姿が登場するのは、永仁元年(1293年)製作とされる『蒙古襲来絵詞』である。

 少なくとも記録に現れる時点では、その物が存在していた事は確実であるが、その時点より以前に形作られたであろう事は推測できると思う。
 よって平安後期から鎌倉初期の頃には、足半に類する履物は作られていたのではないか。


『蒙古襲来絵詞』より


戦場の足半

 平安後期に形作られた足半は、その利便性から身分の貴賤を問わず、広く武家を初めとする戦場(いくさば)に関わる人々によって履かれる様になる。またそれが奨励もされた様である。
 足半が軍陣にて着用された例は、多くの絵画資料に見る事が出来るが、文献資料に登場する事は意外に少ない様だ。
 宮本氏は論文「足半ゾーリの研究」の中で、これは戦場にて着用が一般的であった故ではないかと推測されている。当たり前の事をあえて言及しないと言うのは、いつの世も同じであろう。

 元亀四年(1573年)の刀根山の戦いにて、裸足で御首を届けた兼松(金松)又四郎に、信長が自分の足半を褒美に与えたという有名な話がある。
 『信長公記』には、長年常に足半を腰に付けていた事が書かれ、『信長将軍記』(注1)には「若年より戦場に望むごとに刀の鞘につけたり」とある。
 刀の鞘に付けたかはともかく、大名も戦場で足半を持参していた様である。

さらには戦場でなくとも、用心の為に夜間、時には昼間であっても、沓や貫ではなく、足半のまま馬に乗って行くという武家故実もある。
 基本的には馬から下りる時に沓を脱ぎ、足半に履き替えた様であるが、近場に出かける際、足半のまま馬に乗るという事も在った様であるから、とっさの際に機敏に対応出来る、優れた履物であったと認知されていたと同時に、気軽な履物で在ったのであろう。

注1
寛文四年(1664年)版本。
江戸時代初期の記述故、『信長公記』等に比べると、正確さに欠くかもしれない。


『天狗草子』より


足半の作法


 足半は戦場や、戦闘に関する場合以外でも多用された。
 本来、礼儀として(欧州の帽子の様に)履物を履いたままでは、相手に非礼であるとされた日本の作法であるが、足半の場合は「足半に礼儀なし」といわれ、着用していても非礼とされなかった。
 御参内の時にも御車寄までは履く事が許されたし、大名出仕の時に、将軍家御門の内から御縁の際、あるいは御前の白砂、殿中庭上まで、つまりは将軍家邸内・庭園内までは、同様に履く事が許された。
 とはいえ逆説的に言えば、それ以上は履く事を許されなかったし、貴人・主人の前では遠慮すべしとされた。

(『鳥坂記』には「わらんじも礼はなきといえり」とあり、草鞋も同様であった様だ)

 主人が足半を脱ぐ時に、足半を脱がせ、再び履かせるのは、小者(こもの。こびと。武家の隷属的階層。侍に非ず。)の役割であり、悴者(かせもの。武家の従者。身分の低い侍)等がする事は無かった。
 小者がいない時に限って、他の者がする事もあった(『貞順古実集』)。
 その際、常に左から脱がせ、左から履かせる。

 供の者が敷皮(座る時に引く毛皮)を敷いて主人を待つ時に、太刀を左の膝の上に置き、足半を敷皮の左下に置く。
 履く時は取り出して敷皮の上に置き、左より履くという故実も在る。
(『武雑記』『人賢記』『馬具寸法記』『走衆故実』等)


『酒飯論絵詞』より
これを見ると、足半を敷皮の左前に置くのか、左の下に潜らせるのか分からない・・・。


足半の衰退

 武家社会では、その実用性などから常に用いられてきた足半だが、社会にゆとりが出てきた織豊時代の都市部では、「尻切」「木履(下駄・足駄か?)」「長草履」等、高級品やファッション性の高い履物が、身分の低い者達の間でも流行し、足半は履かれなくなってゆく。
 権力者はこれを規制し、故実に従い足半を強制する動きに出る。

天正十四年(1586年)正月十九日の豊臣氏法度
「一、諸侍、しきれ(尻切)はく事、一切停止也、御供之時は足なかたるへし、中間こものは不断あしなかたるへき事」

『大友興廃記』政道仰出さるる条
「於府内昵近之侍外、長草履木履停止之事、諸出家者制外也、
并医師六十巳上之者女性者聴之、雑人者可足半。」

 しかし所詮、権力者側の反動でしかなく、時代と共に都市部からは消えてゆくのを止める事は出来なかった。
 そして戦場が消えていくと共に、武家の世界から足半の姿は消えていく様である。
 そして足半は戦闘用具ではなく、純粋な農具、漁具に成って行くのである。



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