萎烏帽子



1.下調べ

1-1.萎烏帽子の形状と制作
1-2.再現内容の確認


2.作ってみよう!

2-1.素材
2-2.型取
2-3.縫製
2-4.小結の取り付け
2-5.縁の縫い取り
2-6.完成


3.被ってみよう!

3-1.普通に被る
3-2.小結を顎紐にして被ってみる


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1.下調べ


 烏帽子の中でもっとも原初的で、もっともありふれた物が「萎烏帽子【なええぼし】」(もしくは「揉烏帽子【もみえぼし】」「梨打烏帽子【なしうちえぼし】」)である。
 烏帽子が平安後期から漆で塗り固められ、素材も紙などに変わって硬化していく中で、「萎烏帽子」は薄物の布帛を用いた柔らかいままの姿をとどめ、公家が「立烏帽子」、武家が「侍烏帽子」を着用する中で、「萎烏帽子」は広く一般の成人男子に、また戦陣における武家装束としても着用された。
 今回は中世前期頃まで、広く一般的に着用されていた「萎烏帽子」を再現してみたい。

 詳しくは「中世歩兵研究所」内「被り物と髪形の概説」「烏帽子」を参照。


1-1.萎烏帽子の形状と制作

 「萎烏帽子」などの柔らかな烏帽子の具体的な形状に付いては、その実、良く分からないというのが正直な所である。
 絵巻物などの絵画資料に、わずかにヒントを見いだせるが、不明な点が多い。それもこれも、こういった烏帽子が民具に近い物であり、有職故実といった形で伝承されにくい物であったからではないだろうか。「侍烏帽子」などの武家故実などとして伝承されている物ですら、時代の経過と共に古い形が失われているのであるから、なおさらである。
 こういった柔らかい烏帽子の形状や制作方法について、主に江戸中期の故実家伊勢貞丈が述べているないようが有名であるが、それでも近世になってからの姿である様に思われる。

 ・素材
 伊勢貞丈は、表地に黒く染色した綾や精好を用い、裏地に薄紙を重ねて柿渋や漆を薄く引いた物を用いるとしている。しかしながら戦陣装束的な仰々しいタイプの物ならともかくとして、普段着的な物はもう少し柔らかそうに思われる(下図参照)。
 おそらく染色、もしくは薄く漆を引いた薄物の布帛を、単あるいは袷にして作っていると思われる。
 
  
(左):烏帽子を引き立てて着用している様子  『蒙古襲来絵詞』より
(右):萎烏帽子を着用する職人  『松崎天神絵詞』より

 ・形状
 近世の烏帽子は総じて高さが低くなる傾向があり、伊勢貞丈も『軍用記』の中で、サイズは人によりけりだが、頭の周りが二尺ならば高さは一尺としている。これは例えば帽子のサイズが28の人の烏帽子の高さは28cmに成るという事である。
 しかしながらどの図をみても、中世の烏帽子の縦と横の比率は著しく違い、高さは高目である。
 また縁については『連阿口伝抄』の中に「縁の高さ一寸ばかりが程也。人によりては5、6分もあり、7、8分もあり計るべし」とあり、適当な幅で良い様である。古い物の中には縁にサイズ調整用の紐を通して、後ろで締めるタイプの物もあった様である。

 ・小結
 小結は本来は髻【もとどり】に結びつけて烏帽子を頭部に固定する物であったが、時代が下ると共に、その機能を失い、ただの飾りとなってしまった。
 実利的な存在であった頃の小結に付いてであるが、萎烏帽子に関しては『福富草紙』の描写が有名であり、非常に参考になる(下図参照)。
  
 ここで注目すべきは小結の形状と取り付け位置である。
 興味深いのは小結が左右の縁に取り付けられた二筋の紐ではなく、つながった輪である点である。
 取り付け位置に関しては真ん中から少々後部よりといった所であろうか。
 小結の紐の種類に関しては画像では分からないが、おそらく組紐であろうか。近世の装束故実では組紐とされる。

1-2.再現内容の確認

 さて再現内容をどの様にするのかはっきりさせたい。
 目標は『福富草紙』に描かれた物を基本とし、その他の絵画資料や、足りない部分は近世の故実書で補完しながら、中世期の一般的な萎烏帽子を再現する。
 なお、素材や細かな形状の選択に付いては、制作過程の中で述べてゆきたい。

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2.作ってみよう!


2-1.素材


 まず素材である。

 基本的には薄物の布帛を選ぶわけだが、伊勢家の主張する綾や精好という故実にこだわる必要も無いし、手元に黒染めの紗の古布があったので、それを用いる事とした。ただし、使用したのは化学繊維の安物。

 小結用の組紐は2.5mmの手芸用組紐。素材はポリエステル。なんだか今回は化学繊維の代用品が多いなぁ。

 型紙には前回の侍烏帽子の改造の際に作った物を使用。
2-1

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2-2.型取


 型紙をマスキングテープ(医療用紙テープと同じ物)で仮留めし、チャコでライン取りをする。
 使用している型紙の背が低いので(改造した侍烏帽子の物よりも低めに作ったタイプ)、その分と、縁を折り返す分(約4cm程)の幅を下にあけている。

 所が、うっかり高さが低くなってしまった。
 具体的には横幅2尺弱×高さ1尺弱(29×29cm)である。
 前述した様に、侍烏帽子で使用した型を利用したのだが、絵画資料などを見返してみると、もっと高さがなければならなかった。侍烏帽子よりも萎烏帽子の方が、背が高いのだろうか。失敗しました。
2-2a

 布は二つ折りにして型を取った。左側が前に来る方で、そこが折り目に成っている。
 つまり左右で一枚の布を使用し、縫い目が前には無い。
 布の耳は縁に来るように裁断した。

 表地用と裏地用とを同じ様に印を付け、折り目の部分で合わせて、まち針で固定。
 縫い終わったら裏返すので、現在見えている方が裏地になる。
2-2b

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2-3.縫製


 余分な布を裁ち落とす。
 和裁の基本に沿って、直線裁ちにしたが、当時の烏帽子はどうだったのだろうか?
 
 その後、チャコで付けたラインに沿って縫う。
2-3a

 縁は二度折りで仕上げるつもりなので、一度目に10mm程折って縫った。
 ちょっと画像では分かり難いか。
2-3b
2-3c 2-3d

 そのままで裏返すと、頭頂部の曲線部分の余り布がじゃまなので、きちんと仕上げる。
 技法は着物の袂【たもと】の角を丸くするやり方を用いた。

 すなわち縫い目の外側に、5mm間隔で、右から左へと、左から右へと、二筋の糸で二本のラインを縫う(2-3c参照)。

 この二筋の糸を、左右それぞれに引っ張ると、巾着のように布が縮まる。ここに型紙を当てて、縫い目の曲線に沿う形になる様に縮ませ具合を整え、二筋の糸をそれぞれ片結びにすると固定される。(2-3d参照)

 最後は余った角の部分を折って縫い留めたり、適当に仕上げをする(2-3e参照)。
2-3e

 全体図。

 こんな感じで仕上がります(2-3f参照)。
2-3f

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2-4.小結の取り付け


 小結を縫いつける。

 小結の長さは絵画資料を観ると、大体横幅の倍くらいありそうでもあるし、それよりも短い感じもする。今回は一尺五分(約45cm)とした。
 取り付け位置は、真ん中から若干後ろ目であるが、今回は後ろから計って四分(約12cm)辺りに取り付けた。
2-4a

 伊勢貞丈の故実では一寸(約30mm)ばかり縁に紐を差し込むとある。縁の幅も大体において一寸なので、縁の分だけ差し込んで縫い留めるという事だろう。

 組み紐を縁の折り返し部分に縫い留めた(2-4b参照)。
 今回、途中で烏帽子の丈が低くなってしまう事に気づいたため、縁の幅を一寸ではなく五分ほどにした為、紐の差し込みも少なくなる。
2-4b(2-4aの部分拡大)

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2-5.縁の縫い取り


 縁を縫う。
 前述した様に烏帽子の背が低くなるのを極力抑える為に、縁の高さを当初の一寸から五分に変更する。
 既に一度折りをして縫い閉じているので、二度折り目をする。

 2-5bと2-5cは、角と小結部分のアップ。
2-5a
2-5b 2-5c

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2-6.完成


 裏返して完成。
2-6

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3.被ってみよう!


3-1.普通に被る


 モデルに普通に被って頂きました。

 本来は髻に小結を結びつけるのだが、髻を結っている、あるいは結える様なモデルが入手困難なので、今回は頭に乗せているだけ。
 また髻が在ると無いとでは、後頭部の烏帽子のシルエットが変わってくるが、なるべく膨らむ様に整えて撮影した。

 もう少し烏帽子の高さがあれば、またシルエットも変わってきただろう。

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3-2.小結を顎紐にして被ってみる


 上図を見て頂きたい。

 これは『蒙古襲来絵詞』で、蒙古軍の船団に攻撃を仕掛ける為に小舟で漕ぎ出でる図である。
 ここに登場する水主や武士と思われる人々の何人かは、露頂であったり、ピシッと張った引立烏帽子や柔らかな萎烏帽子を被っている。
 この烏帽子を被った人々の中に、顎紐の様にも見える姿が描かれている。従来、これらは頂頭掛をしていると解説される事が多い。しかし果たしてそうであろうか?という疑問は既に記した。
(詳しくは「中世歩兵研究所」内「被り物と髪形の概説」「烏帽子」を参照)

 その際は、これは顎紐を取り付けたのだろうという推測をしたが、今回、萎烏帽子を再現する際に考察し直すに、これは顎紐ではなく小結を用いているのではないかと考えるに至った。
 『福富草紙』に描かれる小結の長さと、顎紐の長さが同じくらいなのだ。絵では分かり難いが、実際に再現してみると、丁度良い長さであった(下図参照)。
 いかがであろうか?

 

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